看護師資格の取得はゴールじゃない。自ら考え、社会の力になる人材へ。
日本のITを切り拓いたパイオニアが未来のIT教育を変えていく。
熱い情熱と輝く希望をもって大好きな日本の古都・京都で建築を学ぶ。
留学でどこまでも広がる、未来への選択肢。
患者さんが抱える課題に向き合い、社会づくりで応える。
先陣をきって突き進み、日本の魅力を伝える書道家に。
ファッションと経営を融合させて、社会問題解決にあらたな道を。
歴史や社会学も学び、国境や文化を超えた「人によりそう看護」を実現。
国際経験とデザインの2つの視点で広がる限りない選択肢。
データサイエンスは、全ての学問で、未来を切り拓く強みになる。
大学教授と社会活動家。活躍の場は病院や施設にとどまらない。
時間や場所・国境に制限されない、通信と通学を融合した教育へ。
街全体で勝利を掴み取る、愛されるチーム作り。
技術を磨くだけではなく、街の熱気を上げていく吹奏楽部へ。
設備もなく選手もいない場所から、世界を目指す一歩目を。
欧州のスポーツ文化を京都で実現し、前例のないキャンパスを創り上げる。
女性の経済的自立を支援し、志ある人の希望に応えるために。
自分が変われば世界も変わる。多様な価値観を理解し、あたらしい時代のリーダーに。
正解がないから面白い。好きをとことん探求する道へ。
強さと弱さを知るオンリーワンな人生の伴奏者に。
苦手分野は作らない。病気の早期発見で健康長寿社会を目指すために。
ICTを活用して、子どもたちの学ぶ楽しさを引き出す。
一次救命者として命をつなぐ。重責を担うからこそ、学び続ける。
女性が築いた歴史や文化を知ることで、未来の女性を輝かせる。
海に眠る遺跡を調べたい。飽くなき好奇心で挑む水中調査。
目指すは心と身体の両側面でアスリートを支える理学療法士。
梶谷佳子
看護学部学部長・教授
京都橘大学の人気学部である看護学部が開設されたのは、2005年のこと。男女共学化され、大学名称が「京都橘女子大学」から「京都橘大学」へと変更された、まさに歴史が変わるタイミングだった。
設置準備から携わり、2020年より看護学部長を務める梶谷佳子教授に話を聞いた。
開設が決まった当時は、医療の高度・専門化に対応するため、看護師の養成課程を専門学校や短大から4年制大学に移行する流れとなり始めていた時代だった。ところが京都府内では、2004年春の時点で看護学部を擁する私立大学はゼロ。また、京都橘大学にとっては初めての医療系学部で、前例がないなか新学部設立への準備が始まった。
他大学の教員であり臨床の現場にも従事していたところに声がかかったという梶谷先生は、「京都の私学第1号となるため責任は重大。絶対に成功させなければならないというプレッシャーがありました」と当時を振り返る。難壁への挑戦だが、看護師として現場を知る自分以上に手探りであろう教員や職員たちが、より良い学部をつくるため一丸となって懸命に取り組む姿を目にして奮い立ったという。
準備にあたって困難を極めたのが、実習先病院の確保だ。附属病院を持たない京都橘大学は医療界においては新参者。京都橘大学の想いと覚悟を丁寧に伝えながら、一からネットワークを構築し、実習先の開拓にあたった。また未知数ゆえに、志願者の確保にも苦労した。資格を取得するだけの目的なら、専門学校や短大を選択する学生も多い。魅力を伝えられるよう、4年制大学で学ぶことや学士を取得することの意義を徹底的に掘り下げた。
特に重きを置いたことは、患者のために自ら考え行動できる“自立”した看護師像だ。「京都橘大学は、もとより女性の自立を謳い『自立・共生・臨床の知』を教学理念としています。看護学部が大切にするポリシーもまさにこの3点なのです」。看護という仕事に責任を持てる人材を育成するため、「人によりそう看護」をスローガンに、独自のカリキュラムを配置。スキルの修得はもちろん、看護の本質を理解する授業や、社会で活きる力を磨き抜く多様な施設での臨地実習、国際看護や災害看護など専門領域を含めて、看護を総合的に学べる場を用意した。こうした梶谷先生たちの奮闘の末、京都橘大学看護学部の在り方が定まっていく。
そして迎えた開設初年度の2005年度入学試験では、入学定員80名に対して志願者は18倍を超える1467名という結果に。さらに学生の学力水準は、全国の4年制私立大学看護学部のなかでもトップクラスという輝かしいスタートをきった。
開設後は“伝統”をつくらなければならないという責任も、重くのしかかっていたという。だが、いま卒業生が各々社会で自立しその役割を果たすことで、着実に伝統は築かれ始めている。「新参者が入り込む余地がないと言っていたのは過去の話。卒業生たちの活躍によって、いまでは実習先の病院から本学の卒業生がほしいと言ってもらえます」と、梶谷先生は目を細める。
学士課程で「人によりそう看護」をめざす学びを修得した先には、大学院で、より高度な実践能力や教育研究能力を備えた看護のスペシャリスト・管理者・教育者を養成する教育を展開している。さらに、現役看護職へ向け、専門性向上を目的とした認定看護教育課程も設置。すでに多くの卒業生がこれらの課程を修め、あらたなステージで活躍している。 「大学を卒業し一定の経験を積んだら、より専門性を高め、将来的には病院の中核を担う人材としてのキャリアを歩んでほしい。働きながらしっかりと学べる環境を整えています」在学生はもちろん、卒業生、そして現役看護師たちにとっても、あたらしい選択肢が広がるよう取り組んでいる。
看護学部ではあらたな挑戦として、海外大学とのパートナーシップを強化し、留学プログラムの充実など、国際看護の教育・研究力強化に力を入れている。また、急速なAI・ITの発展に伴い、医工連携の強化もこれからの重要な課題だ。京都橘大学は1キャンパスの中に医療系学部をはじめ、国際、人文、教育、社会、建築、情報工学など様々な学びの場が集結している。そのため授業や他学部の学生との交流、学外活動を通して多様な視点を取り入れながら学ぶことができるのが強みだ。「医工連携は今後ますます進み、私たちの生活を豊かにしてくれるでしょう。ですがIT技術の発展だけを先行させるのではなく、患者さんや人々にとって何がいいのか、今こそ“人によりそう看護”が求められるとき。人の幸せのために活かせる技術として連携していきたいですね」とビジョンを語る梶谷先生の目には、すでにあたらしい選択肢が見えている。
大場みち子
工学部情報工学科/情報学研究科 教授
2024年4月、京都橘大学にあたらしく開設する大学院情報学研究科。日本社会において先端IT人材不足が課題とされるなか、高度な専門性と実践力を身につけ、次世代の担い手となることを目的としたカリキュラムが展開される。
教員陣も、情報工学の最先端をさまざまな角度で教える人材が一同に揃う。その一人が、ITのパイオニアとして日本の情報技術を牽引してきた大場みち子教授だ。
一貫してITの研究に従事してきた大場先生の歩みは、挑戦の連続だった。大学を卒業しメーカーのIT研究職に就いた当時は、情報分野の黎明期。しかもまだ女性の活躍が少ない時代だ。何もかも前例がないなか、新たな分野で今までにないものをどうやって創造していくかと試行錯誤の繰り返し。管理職時代には、70名の部下をもつプロジェクトマネージャーとして日々奮闘した。研究者としても学会発表を継続して着実にステップアップし、国内で情報研究分野の中枢に近づいていった。
そんな怒涛の時代を歩んできた大場先生は、2023年4月から京都橘大学工学部情報工学科の教員に着任。初めに驚いたのは、学生たちの能動的な姿勢だそう。必要であれば自ら他学科にアプローチして自分の力で話を進め、発表では物おじせずに意見を述べる風土が定着していた。研究に不可欠な被験者集めもお手のもの。
学生たちと日々接しながら、京都橘大学が培ってきた教育の特長と、PBL(課題解決型学習)やアクティブラーニングの成果、そしてこれらを重視する意義を感じとったという。特に学部の壁を越えて学び合うクロスオーバー科目では、リーダーシップや交渉力、チームの意見をまとめて企画・提案する力が着実に鍛えられる。また正課授業だけでなく、クラブ・サークル活動も熱心な校風で地域との交流が深いことも、時代に求められる人材が育つ要素だ。
「京都橘大学は看護や医療系、心理学など多分野の専門教員が揃い、設備も整っています。情報工学を掛け合わせ、学内であたらしい研究をするのに適した環境です」いま社会では、加速度的に進化するAI・IT技術と医療といった他分野組合せの研究が注目を集めているものの、労力も予算もかかるため企業の開発部門のみで行うのは容易ではない。「総合大学である本学なら、その強みを活かしてよりおもしろい研究ができるはず」と、大場先生の研究意欲はさらにかき立てられ、止まることはない。
「年齢や性別、国籍や場所、さらに文系も理系も関係なく、誰にでもチャンスがある時代です」と、大場先生の期待はふくらむ。IT市場の急速な拡大により先端IT人材の確保が急務の課題であるなか、情報学研究科にはそれに応える環境が用意されている。メディア授業の提供など多様で柔軟な授業スタイルもそのひとつだ。さらに、情報工学科の卒業生だけでなく、SEなどの専門職で働く人や、他分野でその技術や知識を活用したい社会人の受け入れなど、年齢も文理も超えた教育を形作っていく。
常に先陣を切ってIT時代を切り拓いてきた先生には、「1番になりたい」という強い意思がある。2つの選択肢があれば、必ず厳しい道へ。「いかに人と違う分野に挑戦するかが、大事な鍵。多くの人が歩みがちな前例のある従来型の方法では1番になれないんです。リスクを取ればリターンも大きい。学生の皆さんにも、高い目標をもって将来を見据えた選択をしてほしいと思っています」熱いエールを贈る先生のまなざしには、時代のあたらしい選択肢を切り開いてきた強さが垣間見える。
「情報学研究科での授業も、私にとってはあたらしい挑戦です。大学院は2年間で著しく成長できる“ジャンプ”の場。そこに携わることが楽しみですね」嬉しそうに話す先生が歩んでいく道は、これからの学生たちのあらたな道しるべとなることだろう。
劉昊林(りゅう こうりん)さん
工学部 建築デザイン学科
世界へ活躍の場を広げたいと高い志を持ち、海外からはるばる京都に訪れる学生がいる。
その一人が、世界を舞台に活躍する建築家になりたいと語る、劉 昊林さん。彼は日本の大好きな街、京都で建築を学ぶため、故郷中国の広東省仏山市から日本へ渡り、京都橘大学への留学を決めた。
もともとインテリアへの興味はあったものの、建築への関心はそれほど強いわけではなかったという。だが、故郷は京都と同様、古いまち並みや建築物を大切に伝承する都市。幼い頃から建築への親しみはあった。そんな折りに、日本で家のリフォームを紹介するテレビ番組を見て「建築家たちが家主のために全力を傾ける姿、すばらしい建築物から受ける感動、そして美しく保存されている京都の街並み。この3つの要素が重なったんです」その瞬間、あらたな道を見つけた劉さん。大好きな京都で一級建築士を目指しながら、インテリアや環境デザイン、その他にも幅広く学びを深められる京都橘大学への進学を選択する。
親しみのある日本とはいえ、言語や文化の壁を超え、学問を学ぶことは並大抵の努力では難しいはず。それにもかかわらず弱音を吐かずにまっすぐ建築と向き合う劉さんからは、目標に向けて異国で学ぶ固い決意と湧き上がる闘志が感じられた。
日本で学ぶなかで、日本人特有のホスピタリティと、建築家に必要な素養との共通点に気づいたと言う。
それは、“相手の気持ちを汲み取る力”。劉さんにとって、日本人の空気を読む力や人を思いやる姿勢はとても印象的だったそう。「人の幸せを生むのが建築家の努めだ」という尊敬する先生からの教えが、日本で体感した感覚と重なった。AIが進化する今こそ、人間にしかできないことがある。人と向き合い、相手の幸せを考えて思いやりや優しさを組み込めることがこれからの建築家に求められることだと確信し、今日も学び続けている。
劉さんは、自身の留学経験を活かし、他の留学生のサポートや交流イベント、課外活動にも積極的に取り組んでいる。それはグローバル化が進む現代、もはや地球上で人類は一体であり、国境を超えて分け隔てなく助け合い、交流を広げることが今、世界に必要だと確信しているから。このように、学業以外にも様々な交流の機会が用意されていることも、1キャンパスに9学部15学科が集まる京都橘大学の利点だ。
また、それらの学部や国籍を越えた学生たちとの交流を通して、人との関わりについても学びがあったそう。建築は建築家だけでは成り立たず、材料、コストやクオリティの管理、地域との共生、環境への配慮など、広い分野の専門家たちとの協働が不可欠だ。建築について学べば学ぶほど、建築のプロジェクト規模が想像よりも大きく、また、たくさんの人が関わっていることを知り、コミュニケーションとマネジメントの重要性を感じた。学内外での積極的な人との交流は、劉さんを建築家として大きく成長させてくれるだろう。
劉さんは、日本での暮らしを通して、気付いたことがあるという。それは、様々な人がそれぞれの分野で責任と誇りをもって仕事に取り組む姿だ。「みなが互いを尊重し合い全体の幸せを追求する仕事ができれば、よりよい世界になるはず」と日本の魅力を語ってくれた。そんな劉さんの夢は、誰かのようにではない、自分の使命にベストを尽くし世界で活躍できる建築家になること。ポリシーは「とりあえずやってみよう。でもやるからには全力で」。これだ!と思うあたらしい選択肢を切り拓き、劉さんは迷わず突き進む。
岡山和可さん
国際英語学部国際英語学科
「1年間留学し、海外でインターンの経験もできて、京都橘大学で学べて本当によかったです!」岡山さんは、目を輝かせながらいきいきと自身の経験を語る。
彼女にとって、海外での1年間の留学は大きな挑戦だった。ましてやその直後にインターン生としてニュージーランドで働くなど、入学前には全く想像がつかなかったという。続けざまに海外という場に挑むことを選んだ彼女に、どんな心境の変化があったのだろうか。
京都橘大学国際英語学部は、2回生で全員が1年間の海外留学をする。帰国後のコース選択で観光を専門的に学べることも、高校生から観光セクターに興味をもっている彼女にとっては大きな魅力の1つだった。
当初は留学先としてイギリスやオーストラリアを考えていたが、もし日本で観光産業に就くならアジア圏との関わりは不可欠なこと、多文化国家という日本では経験できない学びがあることを知り、マレーシア留学を選択。将来を見据えた情報収集から確信を得たことで、あらたな道が開かれた。
「なんでマレーシア?って驚かれることも多かったですが、帰国した今では、マレーシアに留学できてよかったと心から思っています」という岡山さん。
中国系やインド系などさまざまな民族が共存するマレーシア。さらに他国の留学生も加わり、文化や宗教、価値観などあらゆる場面で戸惑いながらも1つずつ丁寧に向き合った。例えば、あるコミュニティに馴染めず悩んだ時は、思いきって別のコミュニティへ。その結果、よい距離感で関係を築けたと同時に、「この環境でなんとかしなきゃ」という思い込みが視野を狭めていたという気づきがあった。また英語だけではなく、公用語であるマレー語の勉強にも挑んだ。
マレーシアでの様々な経験で、文化が異なる環境でも積極性が持てるようになった岡山さん。留学中にインターンシップの情報を知り、「働く力や人間力など、日本人学生がいない環境で自分の力を試してみたい」と、応募を即決。マレーシアでの1年間の経験から、興味があること、やりたいことには勇気をもって挑戦しようと行動する力を身につけた彼女。そんな自分の成長に、自分自身でも驚いたという。
マレーシアからの帰国後すぐにニュージーランドに渡り、1ヶ月間飲食店で働いた。ここもまたトルコ人やタイ人などが一緒に働く、多文化な環境で、いくつもの生活習慣や考え方の違いに遭遇。
「同じ英語でも、それぞれの出身によって発音や表現方法が全然違うので、私も恥ずかしがらずに話せたんです」
ニュージーランドでの経験は刺激的で、語学の上達にも役立った。学ぶ場と働く場とでは、使う言葉も人からの見られ方も全く異なるという、体験しなければ気付けない学びも得られた。そんな環境下で切磋琢磨した彼女は、「英語が上手だね」と現地のお客さんから褒められるまでに。その言葉に励まされ、徐々に積極性も増していった。
英語に限らず、岡山さんのホスピタリティあふれる接客への賞賛や、「来てくれてありがとう!」という上司の嬉しい言葉などから、これでいいんだという自信が増すとともにそれぞれの考え方を認め合い、自分の思いや意見もしっかり伝えていく大切さを学んだ。それ以来、まずは自ら“誰かの良いところを見つけたら口に出して褒める”ことを早速実践していると言う。
入学前には想像もしていなかった経験や出会いを重ね、行動すれば視野が広がり選択の幅が広がることを知った岡山さん。「活躍したい国や業種など、ひとつに縛られなくてもいいのでは?」と海外の大学院への進学も考え始めている。
「日本と海外とのあたたかな架け橋になりたい」という想いを軸に、これからも自身の変化を楽しみながらあたらしい選択肢を切り開いていくことだろう。
中本望美さん
健康科学部作業療法学科
2023年度卒業
身体が不自由な人や精神に障がいを持つ人が、自分らしい生活ができることを目的にリハビリテーションを行う専門職・作業療法士。近年は医療や介護の業界に加え、児童や障がい福祉業界など、作業療法士の活躍の場が拡大中だ。そうした時代の潮流から、京都橘大学作業療法学科では、自ら社会課題を見つけ解決できる素養を身につけることに重きをおいている。
2024年春、このマインドを携えた多くの新作業療法士が学び舎から巣立っていく。中本望美さんも、そのひとりだ。
中本さんが作業療法という分野を知ったのは、高校生の時。理学療法士である父が働く病院を見学したのがきっかけだった。患者が病気や怪我などを乗り越えて“自分らしく”生活できる力を引き出す素晴らしい職業だと感じた彼女は、作業療法士になることを決意。京都橘大学のオープンキャンパスで「他大学と比べて先生との距離感が近く、学びやすそう」と感じたことから、本学への入学を決めた。
両親が共働きのため、幼い頃から祖父母に生活を支えてもらうことが多かった彼女。いつか祖父母に恩返しをしたいという思いから、作業療法のなかでも老年期の領域に興味を持ち、3回生になって『地域の医療と福祉コース』を選択する。認知症を含む老年期の障がいについて学ぶなかで、その興味は深まっていったという。「実習中に、担当した高齢者の方が『ここはどこ?帰りたい』と混乱されたことがあったんです。でも、できるだけ優しく声かけをしたところ落ち着きを取り戻し、リハビリを続けることができました」この一件は“不安によりそう”ことについて深く考えるきっかけとなった。
また、授業で団地に住む高齢者を対象に健康維持のための体操や脳トレゲームを実施した際は、予防の必要性もさることながら、地域に交流の場があることの重要性を実感。その一例が、認知症の人やその家族・地域住民・介護や福祉の専門家などが集う場として、今全国に広まっている『認知症カフェ』の存在だ。認知症は現代社会において身近な問題である一方で、理解されにくい側面を持つ。患者さんも周囲の人も、症状の進行やこれからの生活について先行きのわからない不安を常に抱えている。中本さんは次第に「作業療法士として、患者さんご本人や介護するご家族の不安を少しでも軽減するお手伝いをしたい」と考えるようになっていった。
「コミュニティを作ったり、認知症などがもっと理解されるよう情報発信をしたり、積極的に動いていきたいです。患者さんやご家族に何が必要で、そのために自分は作業療法の力を使って何ができるのか。模索しているところです」将来、老年期領域でやりたいことを実現させるためにも、卒業後はたくさんの経験を積みたいと語る中本さん。病院への就職が決まっており、ここで身体障がい領域におけるさまざまな疾患についての知識や技術を身に付けようと、意欲を見せる。
支援を必要とする高齢者やそのご家族が、安心して暮らせる未来へ。彼女が目指す“恩返し”は、自ら見つけた社会の課題に働きかけようとしている。
浦田万葉さん
文学部日本語日本文学科 書道コース/書道部部長
伝統や文化を継承することで、あらたな選択肢が開けることもある。その可能性に向けて未来を描くのが、「書道以外への進路は考えられなかった」とあふれ出る“書道愛”を隠せない、浦田万葉さんだ。
小学校1年生のとき友達と一緒に書道教室に通い始めた時から、書道は日常生活の中心にあった。高校では書道コースを専攻し、書道部でも部長を任された浦田さんは、全国優勝を目標に毎日のように書と向き合う。文部科学大臣賞で第一席を受賞するなど実績を築いていくなかで、自然と「将来もずっと書道と関わっていくんだろうな」と思うように。そして、本気で書道を学ぶのであれば、伝統的な文化が息づき、平安時代に「かな」書道を生んだ京都がいいと考え、京都橘大学に進学する。
「京都でしか得られない空気のなかで書道を学ぶ」という選択は、理想通りだった。街には筆文字があふれ展覧会の機会も多いなど、京都は彼女にとって魅惑的な環境だ。「また、書にもいろんな分野があるのですが、本学には各分野のプロフェショナルの先生方が揃っているので学びが深まります」そして驚いたのは、自分で作品を書いて、それに対してアドバイスをもらうという教育スタイル。「高校のときは先生のお手本を見て書く臨書が中心で、他大学でもそういうところが多いと聞きますが、本学ではまず自分で作品を作ります」これが想像以上に難しく、力が付くのだという。
ずばり、書道の魅力は、人の思いや内面が字に表れることだという浦田さんは、「子どもの頃から習い続けてきた塾の先生が憧れです。あたたかなお人柄で包み込むような懐の深さがあり、だからこそいい作品が生まれるんだと思います」と語る。有名な書道家たちの作品は、言葉には表せないオーラがあり心を揺さぶる。浦田さんも大学での様々な学びやで出会いの中で、もっと自分自身を磨き、自分にしかできない表現で何かを感じてもらえるような作品を生み出したい、と考えるようになった。
浦田さんは、大学でも書道部の部長に。高校では「全国優勝!」といった部内での共通の目標があったが、大学では教員免許を取得することが目的の人もいれば趣味の人もいる。多様な考え方のなかで、「自分が率先して、やるべきことをやる」と先陣を切って書に没頭する。そんな浦田さんの視線は今、海外に向けられている。
「実は高校生の時、地元の姉妹都市であるアメリカのオースティンに行き、書の文化を広める活動としてパフォーマンスを披露したことがあるんです。そこですごく喜ばれて、表現することへの手応えを感じました」だが、身近にロールモデルがあるわけではなく、現在はまったくのノープラン。ワーキングホリデーなど、どんな方法があるのかを探りながら、貯金と英語の勉強に励む日々だ。今は、不安よりもワクワクの方が大きいと目を輝かせる。「SNSなどが普及している今だからこそ、書道の魅力や日本の文化、心の部分を、温度感とともに直接世界に伝えたいのです」伝統を、海外、そして未来につなぐため、浦田さんは道なき道を切り拓こうとしている。
近藤稜馬さん
経営学部経営学科
自身でペイントしたパンツをスタイリッシュに履きこなす近藤稜馬さんの夢は、得意なアートとファッションを融合した自分の店を経営すること。それには経営の知識が必要と考え、京都橘大学の経営学部に入学した。「子どもの頃から絵を描くことが好きで、また店舗経営をする両親が、いろんな事業を楽しそうに手掛ける姿にあこがれもあり、自分もやってみたい!と思ったのが始まりです」事業のイメージは、既存の服にクリエイティブを施すことであらたな価値を生み出す、リメイク業。「ですが、単なるリメイクではありません。古くなるなどして魅力を失った服を、アートの力で生まれ変わらせたいのです」アートの融合をコンセプトに、サスティナブルなファッションの提供をしていくという構想だ。
経営学が学べる大学は他にもある。そのなかで2021年に開設されたばかりの京都橘大学経営学部を選んだ理由は、経済・経営・工学部が合同で学ぶクロスオーバー教育の存在だった。地域や企業から与えられた社会課題の解決に向け、他学部混成チームで取り組む授業では、実践的な学びを経験。「EC市場に参戦する際の企業戦略を考える授業で、経済学部の学生が市場動向を踏まえた提案をしたのですが、マクロ・ミクロ経済の考え方は新鮮で、とても刺激を受けました」実際に社会に出れば、あらゆる職種との協働が必要だ。「事業を展開するには、幅広い専門知識やスキルが必要。これからはデータサイエンスなども不可欠ですよね」と、新たな学問との出会いに意欲を高めている。
学業以外では大学祭実行委員会に所属し、2023年度は、装飾パートの副責任者を務めた。「受付ブースを作ったとき、建築デザイン学科の仲間が空間デザインから必要な素材、安全管理まで瞬時に見極め作業を進めていた姿に感銘を受けました。こんな経験ができるのも、さまざまな学部・学科が集結する本学ならでは」また、ポスター制作では「必要な情報と大学の特徴を盛り込み、誰が見ても印象に残るようなインパクトを出すにはどうすればいいかと悩むことも多かったのですが、今こそ、経営学の知識で考えてみようと思いました」デザインをマーケティング視点で捉え、検証を重ねた。さらに、仲間やお客様から直接作品への感想を聞けたことも、普段では得難い体験となった。
「経営学の知識を踏まえ、多角的な視点を持つことは、アート制作にも影響しました」と振り返る近藤さん。今はアナログとデジタル、両方の強みを活かした自分ならではの手法を編み出そうと試行錯誤している。最近は友達から服にペイントしてほしいと頼まれることも増えてきた。「表現するということと、自我を押し通すのとは違います。“誰が着るのか”という視点が加わり、相手の雰囲気や体格なども考えてデザインするようになりました」
近藤さんの目前の挑戦は、日々湧き上がるアイデアに、数々の体験から得た知識や気付きを掛け合わせて、あらたな可能性を切り拓くことだ。「クリエイターとしていかに選択肢を増やすかが大きなカギ。先生や他学部生も積極的に巻き込んで、あたらしい風を取り入れながら突破していきます」と、今日も絵筆を握る。
唐川芽育さん
看護学部看護学科
京都橘大学看護学部で学び、助産師を目指す唐川芽育さん。だが彼女の夢は、助産師という枠を超えたもっとその先にあるという。憧れの人物は“自分の使命をまっとうするために生きた篤姫”だという彼女が描く未来とは何か、話を聞いた。
小学生の頃、テレビで過激派組織“イスラム国”の映像を見て「人の生死が、住む国によってこんなにも違うのか」と強い衝撃を受けた唐川さん。そこから、国際問題や現代社会が抱える課題に関心を持つようになったという。育てられずにやむなく子どもを放置してしまうといった、女性にまつわる痛ましいニュースを見るたびに、「女性の権利によりそえる助産師になりたい」という思いが強まっていった。好きな京都で学ぼうと大学を探すなかで、“人によりそう看護”というワードが心に刺さったことから、京都橘大学を選び進学した。
助産師という目標の根底には、国際情勢や女性の権利への問題意識があり、「国際協力において、自分がどのように参加することができるかを考えています」と語る。そんな彼女にとって、女性歴史文化研究所を備え、西日本で初めての研究機関として女性史の研究に取り組んできた京都橘大学は絶好の環境だった。さらに、国際看護の授業や、先生から海外の現場での救護活動などを聞くなかで、考え方も大きく変わったという。「国際支援といえば看護・医療にたずさわる側が助ける立場と捉えがちですが、そうではなく、むしろこちらが学ぶ姿勢で共に前進するということが大切だと気付きました。また、医療行為においても、文化を尊重し合うことの本質的な重要性を理解しました」看護の知識や技術を得るだけではなく、資格取得後、それを活かしてどう生きていくかを考えよという先生からの教えは、唐川さんの選択肢を大きく広げていった。
自分がやりたいことに向けてどう行動するべきか、唐川さんは進む道筋を考える。「私の理想は、女性が生きやすい世界。本人の意志でやりたいことがやれて、活躍しやすい社会を実現させたいです」そのためのアプローチとして、助産師・看護師になることは大きな強みになるという。「卒業後数年間は病院などで働いて、キャリアを積みたいです。そしてその先は、女性史や社会学などの学問にも取り組みたいと思っています」さらに、「いずれはアメリカやカナダなど、日本とは文化が異なる国で看護について学びたいですね」医療技術レベルは変わらなくても、多人種・多宗教が共存する環境であれば視点も違うだろう。そこでどう尊重し合うのかを直に体験すれば、必ず、自分の糧になる。
京都橘大学でのさまざまな学びを通して、点と点とがつながるように将来のビジョンが開けたという唐川さん。学業に限らず、「謙虚な姿勢で言葉を選び相手に接することや、一点だけを見るのではなく全体を見渡す目を持つことの大切さなども学びました。それらはすべて、人によりそう精神につながります」社会の課題に正面から向き合える助産師になることで理想の世界を叶えたい。彼女の夢への道は、広がり始めている。
当麻尊裕さん
国際英語学部 国際英語学科
2023年度卒業
自分にとって何がベストな選択か。迷ったら選択肢を更新すればいい。それを実証するのは、3回生時のインタビューにて「夢は国際起業家。海外と関わる仕事に就き、日本の魅力を広く発信したい」と語っていた、当麻尊裕さんだ。卒業を前に将来の選択を迫られたこの1年を、どう歩んできたのだろうか。
高校生の頃から世界で活躍することを夢みてきた当麻さんは、語学と国際関係学の両方を学べる京都橘大学国際英語学部に進学。2回生でのイギリス留学の経験から視野が広がり、「将来は起業して、日本と世界をつなぐ“かけはし”になる仕事がしたい」と、目標が明確になったという。そして、2024年4月からITコンサルティング企業への就職が決定。クリエイティブ事業部のデザイナーとして、WEB制作などに携わる予定だ。
実はこの決定の前に、別の会社に内定していた彼。そこは海外企業と直接関わり英語を必要とする会社で、大学での学びを活かす進路としては理想的な職場だった。だが、「この選択で本当にいいのかと迷いが生じて、自分が何をやりたいのか判断軸を見失ってしまったのです」と当時を振り返る。約3ヶ月もの間悩み抜き、「やりたいことは、日本の商品やサービスを海外に展開したい人と、逆に日本へ展開したい海外の人とをつなぐこと。それをクリエイティブな部分から支えることだ」と思い至った。それには自身の武器となるキャリアを積む必要があると考え、的を絞って就職活動を再開した結果、あらたな内定をつかみ取る。コンサル会社におけるクリエイティブは、企業と深く関わりマーケティングの知識も必要とする仕事。いずれすべての経験が活かせるだろう。「夢の実現には、海外に近づくことより何をやるかが重要だと気付いたんです」と、あらたな決断に希望を抱く。
就職活動と並行して取り組んだ卒業論文は、“海外マーケットにおける高級車の展開”という、もともと大好きな車をテーマにした。卒論を進めるなかで文献を調べていると、日本語より英語の方が圧倒的に情報の量が多いことに気付いた当麻さんは、グローバル市場のリアルを実感。英語力を身に付けて本当に良かったと語る。「いま英語を学ぶ人が増え、SNSも浸透し、誰もが海外と交わりやすくなりました。ですが、たとえ海外とつながるツールを得ても、そこで行動を起こすには、多くの日本人にとって越えにくい壁があると思うのです」と語る当麻さん自身が壁を取り払えたのも、京都橘大学での学びにあったという。
自分の殻から出ることを恐れる人は多いだろう。だが「この大学には、壁を飛び越えられるよう後押しするだけでなく、サポートからフォローまでしてくれる環境が整っています。だから、本来怖がりだった私も安心して未知の領域にも挑戦し、成長することができました」と4年間を振り返る当麻さん。進路に悩んだときもただ助けを求めるのではなく、教員やキャリアセンター、同級生たちなど多様な考えを持つ多くの人たちと、意見を交わし刺激を受けたことで自分の答えを導き出した。これから就職する会社も、社員の次なるビジョンを尊重し、その掛け合わせから生まれる力を応援してくれる社風だという。夢の実現に向けて、今後も当麻さんはあらたな選択肢を更新し続ける。
東野輝夫
工学部情報工学科 教授/京都橘大学副学長
富士田遥花さん 谷尾綾香さん 井上紗綺さん
工学部情報工学科
京都橘大学は、関西屈指の情報教育研究拠点になるべく、変革を推し進めている。
2023年秋、京都橘大学に情報学教育研究センターが誕生。2024年4月には、あらたに大学院情報学研究科が開設。社会人学生も加わり、世代や立場も超えた、より刺激的な学びの場となる。そして、2026年には、デジタルメディア学部(仮称)と、工学部にロボティクス学科(仮称)、健康科学部に臨床工学科(仮称)を新設予定だ(※)。そもそも、初の理系領域である工学部も2021年4月に設置されたばかり。このように急速に情報学分野の拡充をしている背景には、文系・理系といった垣根を越えた学びの場が必要だという大学の意志がある。初代工学部長の東野輝夫先生に話を聞いた。
「車の運転をしながらカーナビで迷わず目的地に行けたり、腕時計型の機器で健康管理ができたりと、AIやITの技術は私たちの生活を豊かにしてくれています。身近な存在だからこそ、理系も文系も関係なく皆が力をつけられるよう、学びの環境を整えているのです」日本はアメリカなどと比べて情報学教育が未成熟なため、技術をマネジメントできる人材が少ないという課題がある。そこで京都橘大学では、情報専門人材の輩出と共に、誰もが情報工学の基本的な仕組みを理解し、社会の中で利活用できる人材育成にも力を入れている。
現在、東野先生のゼミで研究を進めるのは、高校時代理系だった富士田遥花さん、「ゴリゴリの文系だった」という谷尾綾香さん、そして選択制で文系・理系科目をバランスよく学んだという井上紗綺さんの3人だ。意外にも、3人は入学してから文理による壁を感じたことはないという。もともとは健康科学部を志望していた井上さんは、オープンキャンパスで東野先生から情報工学の未来の可能性や「海外では情報工学分野で多くの女性が活躍している」という話を聞いて魅力を感じ、思い切って進路を変更。「最初は理系についていけるか不安でしたが、心配は無用でした。たとえ苦手なことがあっても、まずは得意な部分から関わればいい。勇気を出して選んでよかったです」と目を輝かせる。研究では、3人で助け合い各々の力を発揮しながら、学びを楽しんでいる。
経済・経営・工学部では、学生が企業や行政から提示された課題に混成チームで取り組む『クロスオーバー型課題解決プロジェクト』を実施している。「社会に出たらさまざまな分野の方と一緒に仕事をするので、今から経験できる機会がありとても嬉しいです」という富士田さんは、企業の方と関わることで社会が何を求めているかを肌で感じ、その視点を自身の研究にも活かしている。谷尾さんは、プロジェクトによって社会の課題に気付く力と柔軟な思考が養われたという。クロスオーバーの学びは、視野を広げ発想力を鍛える場としても学生たちを後押ししている。
このように、文理横断で総合知を育む京都橘大学は、1キャンパスの中で分野の異なる9学部15学科を擁することから、情報学との掛け合わせであらたな研究が生まれる可能性にあふれている。世界で注目が高まっている医工連携分野もそのひとつだ。
「世の中には、様々なデータがあふれています。デジタルと、医療・産業・流通・金融・観光・教育などのデータサイエンスの知識・スキルを活かすことで、新たなシステムを創ることができます。ここに若い力を集約することが、日本の発展のカギでしょう」と、東野先生は期待を込める。富士田さん、谷尾さん、井上さんの3人が卒業論文に選んだテーマは、高齢者のヘルスケア。「アバターを使って楽しく運動を習慣付けようというものですが、高齢者の方にデジタルに馴染んでもらう難しさも痛感しています」アンケートなどで多方面からのアドバイスを受けながら、システムの改良に励む日々だ。もともと医療分野を志していた井上さんは、工学部での研究のなかで医療に携わる夢が叶い、さらにこれからの未来にも胸を高鳴らせる。
東野先生は、「ただ知識や技能があるのではなく、快適な使い心地をデザインするような、一歩先をいく高度なIT人材を育成したい」とビジョンを語る。近い将来、学部間連携で誕生したロボットが、医療や介護の現場で活躍するかもしれない。「ITを味方にして、学部も文理も越えた学びが実現すれば、そこから生まれるアイデアやシステム、サービスは未知数です」情報工学を起点に生まれる、京都橘大学発のあらたな発明が社会を驚かせる日がくるのも夢ではない。
※すべて仮称。2026年4月開設予定(設置構想中)。計画内容は予定であり、変更することがあります。
小川敬之
健康科学部作業療法学科 教授
作業療法士の仕事は、こころや身体に障がいがある方と向き合い、自分らしい生活や社会への復帰を支援すること。特に近年、学校や民間企業など、さまざまな場所で作業療法士の力が求められており、活躍の場は病院や施設だけにはとどまらない。小川敬之先生は、教授として大学で作業療法を教えるかたわら、社会活動家として多様な人が共に支え合いながら生きる社会の実現を目指している。
小川先生は、作業療法士、介護支援専門員として30年以上にわたり障がいをもつ方や認知症の方と関わってきた。「障がいや認知症への関わりは骨を接ぐように“治す”というものではなく、障がいを持っていても、自分の持てる力を最大限発揮して、いかにその人らしく生きていくかが重要になります。けれども、社会にはそのサポートがまだまだ足りていないと痛感したんです。それなら私がなんとかしようと立ち上がりました」2013年、宮崎県にて、若年性認知症の方の就労支援をしたい、とNPO法人を設立。続いて、障がいを持つ方や高齢者を正規賃金で雇用し、からすみを製造・販売する合同会社を設立する。ここでは、各人の能力が発揮できるよう、得意な分野を担当。作業療法士として、長年の経験を持つ小川先生だからこそ適えられたシステムだ。
恩師からの声かけにより、2018年から京都橘大学で教鞭をとることになった小川先生。着任後は、京都でも高齢者や障がいをもつ方の地域共生を目的としたNPO法人を立ち上げ、嵐山の一軒家を活用し就労的活動などを実施している。教育と社会活動をミックスさせながら活動する小川先生の一貫したテーマは、“誰もが自分らしく楽しく生きること”。そのサポートのために作業療法の力を活用して描くビジョンは無限だという。
作業療法学科では、国家資格を取得して即戦力となるためだけの学びではなく、社会課題を見つけ解決できる力量形成を重視。「資格はひとつの衣に過ぎない。その衣を着てどう生きるかは君次第だよ」と小川先生は口ぐせのように学生に伝える。作業療法=Occupational TherapistのOccupationalの語源はOccupy(心を満たす・心を専有する)。作業療法士は心の在り方を常に見つめ、その人にとって意味のある生き方を支援する仕事。「困っている人をサポートするのに、場所や方法に縛りはないはずですよね。作業療法のマインドを養い、自分がやるべきことを見つけ出してほしいのです」というのが、小川先生をはじめ教員たちの想いだ。
そのためには、さまざまな経験を積んで人間性を磨く必要があると語る小川先生。「地域交流やクラブ・サークル活動にも力を入れ分野の異なる多くの学びが集結する京都橘大学は、刺激にあふれた最適な環境です」という。実際にそうした環境に揉まれながら、社会の課題と向き合い「何かコトを起こしたい」と考える学生は増えており、障がいをもつ子どもを支援するNPO法人を立ち上げる学生も現れた。そんな学生たちを見て小川先生は、「してやったり、という思いです(笑) 結果はすぐに出なくてもいい。自ら選択肢を築ける学生は、必ずいつか化けますから」と断言する。学生たちの本気度に応えるのも、「変わり者を育てたい」と語る小川先生にとってのあらたな挑戦だ。
そんな小川先生が次に目線を向けているのが、韓国や中国、東南アジアといったアジア圏だ。各国に足を運び、現地のリハビリテーションに触れたことで、日本の作業療法の強みを実感。日本と近い思想を持つアジア圏で、その土地の文化を尊重しながら“日本式”を展開できれば、その国ならではの作業療法の形が生まれるだろうと、すでに活動し始めている。日本発・あらたな作業療法の創出へ。活躍の場は、病院どころか国をも越えていく。
河原 宣子
看護学部看護学科 教授
鈴木 慎吾
生涯教育・通信教育課 課長
中央アジアの国、ウズベキスタン。日本から直行便で約9時間、6000㎞以上離れた現地の学生たちが、いま、京都橘大学の総合心理学部通信教育課程で学んでいる。2023年から開始した、国境を越えたプロジェクトだ。この取り組みには、2人のキーパーソンがいる。
そのひとりが、看護学部の教員である河原宣子先生。先生は2005年に、JICAの看護教育改善プロジェクトで専門家としてウズベキスタンに半年間滞在した経験を持つ。このことから今回、コーディネーターとして新プロジェクトを支えている。
河原先生の活動に垣根はない。家族看護、災害看護、国際看護を専門とし、大学教員として教育・研究に携わると同時に、看護職として臨床の現場に立ち、行政や病院、訪問看護ステーションなどあらゆる現場に活動を広げている。JICAのプロジェクトで派遣された当時は、京都橘大学に看護学部が新設され、河原先生もまだ着任したばかり。「異文化での看護に個人的に興味を惹かれたのもありますが、学部として国際看護や災害看護など専門領域への展開が目標にあったのも参加を決心した大きな理由です」それは、先生にとっても大学にとっても、想像を超えた突然の選択肢だった。
ウズベキスタンで河原先生は、看護の現場だけでなく、文化・価値観などあらゆる面での違いを経験する。だが、もともと家族看護などを通して「“こうでなければならない”という決まったかたちはない」という考えを持つ先生は、困惑することなくひとつひとつの問題に向き合った。国や文化が違っても、相手の価値観をリスペクトし受け止める姿勢があれば、協働してあたらしい営みを生み出すことができる。
現在、ウズベキスタンにあるJapan Digital University(JDU)の学生38名が、オンデマンド授業で京都橘大学の心理学を学んでいる。視察のために18年の時を経て再訪した際、嬉しい再会があった。JICAプロジェクト当時、通訳等で関わりながら日本語を学んでいた現地の学生や若者たちが、さまざまな分野で中核を担う人材として活躍していたのだ。看護という本来の目的以外の場所でも、教育の成果が開花した姿を目の当たりにした先生は、「まいた種は必ず花開く。人材育成とはこういうことだ」と実感したという。また、実際に通信課程を受講しているJDUの学生に受講の動機を尋ねると、日本のアニメへの興味がきっかけという学生もいた。先生は、「通信技術の発展によって、ITインフラが整備され、学びの可能性が大きく広がりました。国境を越えて学び合うことやコミュニケーションをとることのハードルは極めて低くなっている。彼らの十数年後が楽しみです」と、教育環境の進化とその力を確信する。
遠隔での高度な教育を可能にするのは、情報通信技術の力によるところが大きい。最先端の通信技術を活用し、教育環境からこのプロジェクトを支えるのは、もうひとりのキーパーソンである、生涯教育・通信教育課の鈴木課長だ。京都橘大学では、2012年、通信教育課程である『たちばなエクール』を設立。オンラインやオンデマンドでの受講を基本としつつ、最近ではバーチャルな空間で学生同士が交流し、ともに学べる仕掛けを創っている。通信か通学か、デジタルかリアルかといった壁をなくすための環境整備が技術面からも進められており、鈴木課長はその第一線に立つ。「2026年、新設予定のデジタルメディア学部(仮称)には、通信教育課程も設ける構想です(※)。今後、デジタルで学ぶ環境整備はますます加速していくでしょう」と、これからの未来に期待を示す。
メディア授業の充実によって、多様な人が自分のライフスタイルに合った方法で学べる時代。これからは、仮想空間上での研究や多様な学生同士の交流も実現していくだろう。一方で、人と人が直接関わり合うことで生まれる温度感は、デジタル上では得られない強みでもある。「通信か通学か」ではなく、そもそもの境界が取り払われれば、あらたな学びの選択肢が広がるだろう。
これまでも京都橘大学は、学部はもちろん教員・学生、社会といった境界線を取り払い、クロスオーバーに学べる環境づくりに注力してきた。今後はさらに、国や時間、通信・通学といった垣根もダイレクトに越えていく。「シームレスな学びによって、選択肢は無限に拡大します。未来を切り拓く力を持った人材を育てるのが京都橘大学の教育。これからの活躍の場は宇宙だって対象ですよ」と、河原先生が見据える先はすでに垣根なく広がっている。
※仮称。2026年4月開設予定(設置構想中)。計画内容は予定であり、変更することがあります。
MF | 中野晃弥さん | 経営学部経営学科 |
DF | 横山凌雅さん | 経済学部経済学科 |
MF | 細島大空さん | 経営学部経営学科 |
GK | 岡田修樹さん | 経営学部経営学科 |
DF | 平間陸斗さん | 経営学部経営学科 |
2023年12月、アカデミックリンクスの大階段に“祝 サッカー部関西学生リーグ 1部昇格”の横断幕が掲げられた。それは部員や監督、卒業生をはじめ、京都橘大学サッカー部に関わるすべての人たちの悲願といってもいい、部の歴史的快挙だった。
創部は、男女共学化し大学名を京都橘大学に改称した2005年。2016年に強化クラブに認定されたことで、全国のサッカー強豪校やクラブユースチームから実力ある選手が続々と集結。部の目標である関西学生リーグ1部優勝に向け、まずは1部昇格への挑戦が始まった。切磋琢磨しながら順調に勝ち上がり、2019年には2部Aリーグに昇格。そこから、あと一歩及ばない苦しい期間を経て、ついに2023年、1部昇格が決定した。
1部リーグに昇格したサッカー部をリードするメンバーに話を聞いた。
細島大空さんは、“勝ち”につながった要因として全員で気持ちをひとつに取り組んだことが大きいと振り返る。「昨年は勝てない試合のときなど、チーム全体の雰囲気がよくなくて。その反省から、キャプテンを筆頭に遠慮せずに言いあえるコミュニケーションを大切にしてきました」その結果、部員同士の会話が増え、課題は意見を出しあって解決方法を見つけていくなど、結束が強まっていったという。「メンバーそれぞれが、練習中に自分ができることを率先して実践するようになりました(平間陸斗さん)」「スキルアップだけではない、チーム全体のエネルギーが向上したと感じています(横山凌雅さん)」
「京都橘大学サッカー部」の存在感が高まるにつれ、周りからの見られ方も変わった。新キャプテンの中野晃弥さんは、「“1部のサッカー部”、または“1部の選手”として見られるので、チームとしてはもちろん個人的にも責任重大ですね」と、緊張をにじませる。けれども、部の理念は“全ての人に感動と勇気を与え、誰からも愛され、応援されるチーム”。注目されるのは望むところだ。周囲の応援なくして強いチームは築けないという考えのもと、部のあり方を常に意識してきた。
そんなサッカー部では、さまざまな地域交流活動にも積極的に参加している。例えば、2023年には小学生を対象に数々のイベントを企画。地域のチームを招いて『TACHIBANA SOCCER FESTIVAL』を開催したほか、初心者でも気軽に楽しめる『サッカースクール』や『ゴールキーパースクール』などを実施。世代や障がいの有無に関わらず、サッカーを通じて誰もがスポーツの価値を享受し、一人ひとりの個性が尊重される共生社会の創造を目的に開催された「SDGsフットボールフェスタ2023」には、200名もの多様なプレーヤーが参加。いつもイベント会場は、元気な声と笑顔に満ちあふれている。
地域と関わり注目されれば、さらに強くならねばとモチベーションも高まる。「正直、後がないような厳しい状況を何度も経験しましたが、それでも乗り越えられたのは多くの応援を頂いたからです。だからこそ、自分たちのサッカーで街を盛り上げていきたい(岡田修樹さん)」
次なる目標は1部リーグでの優勝、そして全国大会出場だ。これまで以上に厳しく、大きな挑戦となる。中野さんは「次に入部してくる新入生たちは、現部員のように前年までの悔しさを経験しておらず、いきなり“1部のサッカー部”の部員になります。我々にとっても初めての状況のなかで、どう部を引っ張り行動していくかが鍵ですね。自分たちのスタイルを信じて新たなステージを楽しみながら進んでいきたいです」と力強く語る瞳に迷いはない。
2024年のスローガンは“挑越”だ。部員たちは、あらたな選択肢にも臆せず挑み、越えていく。
京都橘大学吹奏楽部
部長:伊藤秀平さん 経営学部経営学科(担当楽器:アルトサックス)
副部長:田畑詞美さん 経営学部経営学科(担当楽器:フルート)
学生指揮者:金尾太雅さん 文学部日本語日本文学科(担当楽器:トランペット)
京都橘大学では、入学式をはじめとする式典やオープンキャンパス(OC)、大学祭、各部の試合応援など、あらゆるシーンが吹奏楽部による華やかな演奏で彩られる。音楽から京都橘大学のあらたなカルチャーを創っていく、いわば“盛り上げ隊”だ。
近年、技術面でもその活躍ぶりは目覚ましい。2022年には京都府吹奏楽コンクール大学の部 金賞、関西吹奏楽コンクール大学の部 銀賞、2023年は、京都府アンサンブルコンテスト京都府大会・ホルン4重奏 銀賞、京都府吹奏楽コンクールで金賞を受賞。コンクール以外にも大学ジョイントコンサートへの出演のほか、春と秋のコンサート、冬の定期演奏会を主催するなど、年間スケジュールはぎっしりだ。
さらに学内に留まらず、近隣の地域行事にも積極的に参加しているのが同部の特徴だ。祭りなどのイベントや、幼稚園、小学校、消防局の出初式まで、依頼を受けて演奏活動をする場は幅広く、地域交流の一端を担っている。シーンによって音色の出し方や演奏への心構えなど違いはあるのか、トランペット担当で学生指揮者の金尾太雅さんに話を聞いた。
「演奏する場のコンセプトや対象者に合った選曲や雰囲気づくりがカギです」例えば街のイベントであれば、幅広い年代の方に喜ばれる選曲を行う。小学校での演奏であれば、まずは音楽に親しんでもらうことを目的に、楽器の紹介や指揮者体験を取り入れて場を盛り上げる。OCでは、学生が創る演奏の楽しさを伝えるとともに、大学の雰囲気を感じてもらい「ここで一緒に演奏したい!」と思ってもらえる仲間を募る重要なミッションもある。それらの活動のなかで共通しているのが、何よりも自分たちが楽しむこと。演奏の楽しさを伝えることが、京都橘大学吹奏楽部に受け継がれるスタイルだ。
対してコンクールは、意識がまったく異なるものだ。「年に1度の甲子園のようなものなので、緊張感も高まる」と語る金尾さんの背筋も自然と伸びている。評価されることを前提にクオリティを上げ受賞を目指す過程は、一人ひとりの真剣勝負であり、決して平坦な道ではない。
京都橘大学吹奏楽部には、2回生時に部長・副部長を決める伝統がある。1回生時は、お互いの素質を知り、自分たちの演奏をどうしていきたいかを熟考する期間。話し合いを重ね、2回生の夏ごろに推薦で決定する。次期部長・副部長に決まったのは、アルトサックス担当の伊藤秀平さんと、フルート担当の田畑詞美さんだ。
伊藤さんは、“音楽は楽しむものだ”という思いが根底にあり、部の雰囲気が自身のイメージと合致したことから入部を決めたそう。「よく人から“優しい”と言われます。部の雰囲気づくりのためにもそういう部分が支持されたのかな」と語る伊藤さんは、同期生たちから「部を引っ張って行く立場を自覚し、時には厳しく導いて!」と叱咤激励されている。
田畑さんは、強豪校である高校の吹奏楽部での厳しかった経験から、大学では自分らしく音楽を楽しみながら、なおかつクオリティも高い“ひと味違う音”を実現したいと考え、数ある大学のなかから京都橘大学の吹奏楽部を選んだ。「まわりを良く見て冷静に判断し、遠慮せずはっきり意見できるあなただから推薦するよ」と多くの同期生に励まされ、やるぞと決めた。
自分たちの音楽をどうしていきたいか。そのためにはどのような体制がふさわしいのか。次なる選択肢に向けてじっくりと議論を重ね、皆で決断していくのが伝統を継ぐ吹奏楽部のやり方だ。
「やさしくてあたたかな音楽を奏でられるのが、私たちの強みです」と自信を持って語る伊藤さん。先輩たちから、「音には、部の雰囲気や奏でる人たちの心が表れるもの。」と教わってきた。田畑さんも、「私たちの活動は、近隣地域の方に支えられている部分も大きい。みなさんに京都橘大学はすごくいいねと注目してもらえるような魅力的な部にしたいです」と、今後のイメージを膨らませる。
観客の方からの盛大な拍手や笑顔が、彼らへの最大のご褒美であり、次への糧となる。演奏を終えるごとに、次はもっと頑張ろうという思いは更新される。コンクールで勝つことも、音楽の楽しさを伝えることも。これからの代を引き継ぐ自分たちの演奏とは何か、あたらしい選択肢の扉は開かれたばかりだ。
島津勝己
陸上競技部 監督
京都橘学園は、「学生・生徒が競技に打ち込める環境を創出し、その人間的成長を促すとともに、全てのステークホルダー間でのスポーツ文化の涵養とwell-beingの形成と発展を追求する」ことをスポーツ振興の目的に掲げることから、学生の積極的なクラブ・サークル活動への参加を後押ししている。2023年4月、陸上競技部女子短距離部門があらたに強化クラブとして加わった。このゼロからの立ち上げに挑もうというのが、オリンピック選手輩出経験もある“育成のプロフェッショナル”、島津勝己監督だ。
島津監督は、中学校で約35年間、陸上競技部の顧問として生徒を指導する一方で、中学校体育連盟や日本陸上競技連盟の委員として生徒たちの育成・強化に尽力した。『OSAKA夢プログラム(夢プロ)』ではゼネラルマネージャーを務め、大阪から100mの多田修平選手をはじめとするオリンピック選手を輩出するなど、陸上選手を大成させてきた人物だ。夢プロでは海外での長期練習にも同行し、大学生や実業団の選手たちと行動を共にしてきた経験が、新設部の初監督就任につながる。
島津監督が「大学で女子選手を育てよう」と決意した背景には、強い想いがあった。過去、陸上の強豪高校に進学した教え子たちの多くは、手厚い指導を受けて成長し、成果を残すことができた。ところが「高校卒業以降はそうはいかないことが多くて。特に女子は、資質的に細やかなサポートが必要な場合が多く、高校時代の成績が生涯のベストという子が多かったのです。実際に日本の陸上選手は、海外に比べていい記録を出す年齢が若いのですが、日本は早期から叩き上げ過ぎて伸び悩んでしまうのかもと半ば諦めていました」ところが、夢プロでの経験から、育成次第では大学生でも伸びると確信。「大きな伸びしろがある女子に絞り、各学年5~6人程度であれば、十分に自分の目が行き届く」と肚を括った。
なにしろゼロからの立ち上げだ。伝統ある強豪大学のように、設備の整った専用トラックも、実績もない。「練習は工夫次第です。他大学と違って少数精鋭チーム。各々の時間割と調整しながら、空き時間にほぼマンツーマンで“確実に見る”ことができるのが当部の強みです」現在、5名の入部が決まっている。彼女たちは入学前から互いに情報交換して意識を高め合い、入学・入部の日を待っているという。
目標はずばり、京都橘大学からオリンピック選手を輩出すること。「結果は出せると思っている」と力強く語る監督は、「大学生でも伸びることを証明したいし、周りもそれを期待しているでしょう。だからこそ、失敗できません」と、奮い立つ思いを吐露する。また監督は、中学教員時代から「クラブ活動は学内はもとより地域に愛されることが大切」と説き続けてきた。大学も同様だ。「本学に来たからにはしっかり勉強に励み目指す資格も取得して、文武両道、誰からも認められ応援される選手の育成を目指します」
島津監督は、陸上は記録を伸ばしていく競技で、勝ち負けではなく自分との闘いというところが魅力だと言う。「陸上競技は非常に教育的効果のあるスポーツだと思います。私が支えますので、学生たちには、夢を大きく抱いて臨んでほしいですね」京都橘大学、そして監督とこれから迎える選手たちにとっても、初めて尽くしの挑戦だ。今、あらたな伝説が生まれようとしている。
葛和 修治
管財課 管財課長
あたらしい選択肢を模索し挑戦を続けるのは、大学を支える職員も同じだ。校舎や施設・設備の計画から整備、維持管理までを行っている、学内環境の守り役である管財課の葛和課長に話を聞いた。
管財課の業務は幅広く、場合によっては長期に及ぶ。例えば新校舎の建設が決定したら、パートナーとなる企業の選定をはじめ、教育、研究、地域交流の拠点として時代に適しているか、学内外の様々な調整を行っている。特に設備面では、実際に活用する先生方の意見を聞きながら、空間デザインや最先端機器の手配などを進めていく。こうして数年をかけて、あらたな学びの場が誕生する。葛和課長は、アカデミックリンクス竣工をはじめ、学生が主体的に学べるコミュニティづくりや教職員のオフィス環境の大改革を行った主要メンバーのひとりだ。
校舎等の建設において最大のポイントとなるのが、地域の方とのコミュニケーションだ。「京都橘大学は、文化・スポーツ・ボランティアなどあらゆる面から地域と関わり続けています。校舎等の建設は、地域の方のご理解とご協力によって実現してきました。理解とは一朝一夕で得られるものではなく、信頼を築いてきた結果なのです」と語る葛和課長。彼にとって、最新鋭のテクノロジーを駆使したKYOTO TACHIBANAスタジアムの開設には、特別な想いがあった。
葛和課長は実は元プロサッカー選手。新卒で銀行に就職したものの、サッカープレーヤーとして生きる夢を捨てきれず単身フランスへ。ほぼ飛び込みでトライアウトに挑んで選手としての籍を得たという、異色の経歴の持ち主だ。約5年の間選手として活躍するだけでなく、元日本代表監督であるフィリップ・トルシエ氏の通訳を担ったりと、サッカーと密に関わる日々を送った。現在も、サッカー協会やJリーグなどから通訳の依頼が入るほか、自身もプレーヤーとしての活動を継続している。
京都橘大学の職員になったのも、フランスでの経験が理由のひとつ。「日本のスポーツは学校での部活動が中心ですが、欧州では、地域のスポーツクラブで、子どもからお年寄りまで多様な人々が集うスポーツコミュニティが主流です」それを日本でも実現したいと考えた葛和課長は、帰国後大学院に進学し、日本における総合型地域スポーツクラブの在り方を研究。結論として「日本でそれを叶えるなら大学だ」と思い至り、京都橘大学に入職する。KYOTO TACHIBANAスタジアムの完成は葛和課長の念願であり、目標に向けた幕開けでもあった。
「月1回、学生、教職員、サッカー部のコーチ、そして近隣の方々や関係業者の方等、サッカー好きが集まってサッカーを楽しむ日があります。元プロ選手である京都サンガF.C.のコーチが参加してくださることも」いろんな垣根を取り払い、皆が共にボールを追う姿に顔をほころばせる彼は、スポーツを通じて大学の発展と地域交流のために次なる一手を模索する。そのひとつとして、京都橘大学にはあらたにスポーツ振興室が設置される予定だ。
管財課は現在、2026年度の新学科開設に向けての準備に追われている。新棟建設も予定されているが、建物を建てること自体が目的ではない。「学生はもちろん、受験生や卒業生、そして地域の方たちが足を踏み入れた瞬間、わくわくするような未来が広がる学びのコミュニティを作りたいんです」と葛和課長は目を輝かせる。そんな多忙な日々のなか、フランスサッカー協会から、パリ2024オリンピックでの運営サポートの依頼が飛び込んできた。彼のモットーは、“やらない後悔よりやって失敗”。失敗は後から笑い話にすればいい、それよりもチャンスを掴みに行こうというスタンスだ。「挑戦を応援するスタンスの京都橘大学に私が入職したのは、運命だったのかなと思っています」あらたな選択に果敢に挑む職員たちが仕掛ける、あらたな選択に出会う場所。それこそが京都橘大学だ。
今から遡ること122年前の1902(明治35)年5月22日、京都西陣の東に位置する御所近くに、京都橘学園の前身である京都女子手藝学校が誕生した。そこでは、良妻賢母の育成が当時の女子教育では一般的だったのに対し、「女性の自立」を促す実業教育を提唱。女性が“経済的に自立して、社会で活躍できる力”を身に付けられる学びを重視した、革新的な私学教育の始まりでもあった。
創立者は、50余もの教育事業を手掛け、京都の私学教育に多大な足跡を残した、中森孟夫(1868-1946)。若者の学ぶ志に応えるため、私財をなげうって学校設立に取り組むなど生涯を通して教育に情熱を注いだ人物だ。京都女子手藝学校は、西陣織で知られる京都西陣の東のはずれ、東堀川通上長者町に民家を借り受けて開校した。周辺には多くの学校や教育機関が集まる、学びの環境として最適な場所であった。
開校から半年後、女子が自立する手段としての裁縫や織物といった実学教育を中心に学ぶ「本科」に加えて、小学校教員を養成する「別科」を開設。師範学校の予備(女子)部や廃止された教員養成所の生徒も引き受け、生徒数は急増した。そこで中森は1903(明治36)年、中立売に600有余坪の土地を購入。翌年には新校舎が完成した。現在は京都ブライトンホテルが建っているが、京都橘学園は、この「中立売」を学園発祥の地とし、学園創立100周年を迎えた2002(平成14)年、敷地の一角に記念碑を建立した。
1905(明治38)年には京都府で設けられた女子教育振興のための補助金を受け、さらに今後の展開を見据えて財団法人化するとともに、1910(明治43)年、校名も「京都高等手藝女学院」に変更。こうして、近代的な学校の様式が整った。
創立者・中森孟夫 ― その生涯と教育思想
農家の長男として生まれた中森は、絵画や彫刻を得意とし、9歳で自分のシャツを縫製するなど手芸にも秀でた少年だった。学業に目覚めた中森は、昼は田畑を耕し夜は山谷を越えて師のもとへ通って数理を学ぶという生活を送る。その姿が学務委員の目にとまり小学校の助教員に採用され、自らも修業しながら夜学を設けて年長の青年たちに読書や算術を教えた。そのとき、若干13歳。中森が教育を通して社会に貢献した、第一歩であった。
過労で何度も病に倒れながらも、修業と教職に従事し続けた中森。多数の教育現場での経験を重ねるなかで実業教育の重要性を認識し、また自身の苦学の経験から、志ある若者に教育を授ける使命感が固まっていく。そうして京都女子手藝学校は誕生した。
同学を退職した後も、教育事業に邁進。活動の舞台は海外にも及び、1914(大正13)年にはハワイ中学校・ハワイ高等学校の主任教諭として、入植した日本人子弟の指導にあたるために現地へ渡る。また、帰国後も精力的に学校経営や設立などに携わり、地域の人材養成に尽力した。
面倒見がよく、人脈も幅広かった中森。慕われると同時に、教育にかける真摯な想いが、各種学校の開設にあたり多くの援助を得られたひとつの理由だろう。彼の情熱は広く知られるところとなり、当時の教育会から表彰されるなど、社会から高い評価を受けた。
中森は一貫して、「変化の激しい時代においてこそ、自営独立するためにも知識と技能を修得することが大事である」と考え、行動をしてきた。また、「学習者の自然と湧き出てくる要求に応えることが私の使命である」という姿勢を貫き、生涯教育に情熱を注ぎ、多くの学校創立に取り組んだ。京都橘学園の建学の精神である『力を実業教育に注ぎて、将来自営独立の実力を得しめん』には、こうした中森の想いが現れている。
彼が遺した水墨画がある。描かれただるまのそばには「七倒八起」「堅忍不抜」などの文字が書かれ、不撓不屈の精神を貫こうとした中森の思いが読みとれる。
中森がめざした学ぶ志に応える教育や、地域社会の担い手となる実学の重視。中森の時代から今日に至るまで、京都橘学園の教育内容は大きく発展してきた。しかし「生徒・学生に、自立して生きるための力をつけたい」という情熱は、122年を経た今日も京都橘学園に脈々と受け継がれている。教育にまっすぐに向き合い、学ぶ環境を創造していく中森の姿はまさにあたらしい選択肢であり、その精神は京都橘学園の礎として未来に引き継がれていく。
経済学部経済学科
木田向陽さん
困難な状況だからこそ自分自身と向き合い、コツコツと前に進むことで、着実に選択肢を広げる人がいる。経済学部で学ぶ木田向陽さんもその一人だ。
公務員である両親の姿を見て育った彼は、「自分も将来は公務員になって地域の発展に貢献したい」と、期待に胸をふくらませて京都橘大学に進学した。ところが当時はコロナ禍で、授業はオンラインのうえに生活にも制限が多く、思い通りの学生生活が送れないことに不安が募るばかり。木田さんは、「それならば、今できることを精一杯やろう!」と、学科の勉強のほか、独学で簿記やプログラミングの勉強にも取り組むなど、前向きに日々を過ごした。
対面授業が再開すると木田さんの学習意欲はさらに増し、積極的に学業に励んだ。だが意気込むあまり、グループワークで仲間と温度差が生じ、思うような結果が出せないという苦い経験をする。その後「後輩をサポートするラーニングアシスタント(LA)に立候補したんです。ところが、後輩たちのグループワークを通して自分を客観視したことで、あの苦い経験は自身のコミュニケーション不足や視野の狭さに要因があったことに気付きました。一方向の思いだけでは共感や納得は得られない。では自分が変わらなければと思ったのです」
木田さんはLAの活動や、他大学も参加する政策研究交流大会(大学コンソーシアム京都主催)でのグループ論文発表、さらには接客業のアルバイトをするなどして、意識的に人とのコミュニケーションや伝え方を磨く努力を重ねた。また、学部を越えて学ぶクロスオーバーの授業で多様な価値観に触れたことや、ゼミでの体験も成長の後押しに。「学生主体で運営するゼミで、ゼミ長を担っています。メンバーは予想外の発想を持つ人ばかりですが(笑)、でも突飛に見える挑戦が良い結果を生み出すことも多いんです」自分とは異なる発想や価値観を持つ相手と、どう折り合いをつけてゴールを目指せるか。ゼミの教員から、「型に当てはまらないものをどう当てはめるかではなく、それが活きる場を新たに作ればいい」とアドバイスされたことも、その後の思考や行動に大きな影響を与えた。さまざまな活動を通して徐々に柔軟さを身につけた木田さんは、人とのコミュニケーションに自信が持てるようになったと笑顔を見せる。
現在取り組んでいる卒論テーマは『宗教文化とアイドル文化の類似性』。一見、経済学とはまったく共通項のないふたつの文化の共通点を見つけていくこの研究は、これまでの経験により磨かれた着眼点や発想力が活きるテーマだ。東京や大阪のライブ会場に足を運び、観客にインタビュー調査を実施したり、実際に関係者に取材したりと、自ら行動して研究を進める。「何もかも初めての体験なので、一人で取り組むには不安も大きいです。でもやりたいことを受け止め、『じゃあこうしてみれば?』と多くのヒントを与えてくださる先生や大学の環境のおかげで、冒険者のような思いで臨んでいます」
何ごとも“コツコツと一直線タイプ”だったという木田さん。京都橘大学はそれをいい意味で壊し、多くの選択の扉が開かれていることに気付かせてくれたと振り返る。「中高生時代、我流にこだわり過ぎて陸上部で伸び悩みました。でも今なら大学での数々の体験から、自分次第で世界が広がることを知っています」将来の選択もしかり。コロナ禍に直面したことで、IT化の必要性や地域経済を支える金融の役割について考えた木田さんは、現在はIT業界や金融業界への就職を目指している。「選択肢が広がったことで、公務員という目標よりもさらに自分にビビっとくる目的地を見つけました。多くの可能性のなかから、より自分の軸に合う道を選び続けます」
文学部日本語日本文学科
菅 なつ実さん
世話好きで、子どもや困っている人を見ると放っておけない性格の菅なつ実さん。作業療法士を志して京都橘大学の健康科学部に進学したのは、ごく自然な流れだった。ところが2回生になり学びが深まるにつれて、次第に医療分野における自分の適性に疑問を持つようになったという。
夏休み中悩み抜いた末に、事務課に相談。その結果、近代文学が好きな菅さんは、古典文学からサブカルチャーまで多彩なテーマを研究する日本語日本文学科に興味をもち、野村幸一郎教授のゼミで大好きなジブリ作品の研究ができることを知って転学部を決意する。「作品を楽しむ側から研究する立場になったことで、物事の見え方が変わりました。作品内のすべての表現は、意味を持っているのです」例えば、天気の移り変わりやセリフの言い回し、空白部分にどんな意味があるかと深掘りし、関連する論文を読むほか、グループワークで仲間の見解を聞くなどして考察する。その思考は作品研究の域を超えて、日常においても視野の広がりや着眼点の変化につながっているという。「没頭してコツコツと調べたり、意見を出し合って議論したり。その過程は、常にあたらしい発見にあふれています」と、目を輝かせる菅さん。正解がない世界を追う学問は、自分の適性にマッチしていたのだ。
大学生活を後悔なく過ごそうと、あらたな挑戦も。中高生時代は吹奏楽部でホルンを吹いていた菅さん。「転学部し学業のペースが掴めてきた頃、もう一度トライしてみようという気持ちになり、思い切って入部してフルートを始めたんです」さらに、課外活動では解りやすい文章力などが評価され、下級生をサポートするラーニングアシスタント(LA)に抜擢される。「作業療法学科で培ったレポート力が活きている」と、先生たちにも好評だ。そんな彼女が卒論テーマに選んだのは、ジブリ作品『ハウルの動く城』。入学後の経験とヒロインを重ね合わせ、居場所探しと自己肯定感について考察したいと熱意を見せる。
卒業後は医療関係への就職を考えている菅さんは、「人の健康に繋がる場所に関わりたいというという思いは、結局、作業療法士を志した時と何も変わっていない」と笑顔を見せる。医療系から文系への進路変更に驚く人も多い。だが「日本語日本文学科での学びも後押しして世界や物事の見方が広がった今、俯瞰して見ると私の場合は、夢へのアプローチを変えただけなんです。京都橘大学では未来にはいくつもの道があることを示してもらい、両学科の先生方や職員の方がバトンを繋ぐように支えてくださったことで、行動を起こせました」
転学部がスムーズに叶った背景には、文・理多彩な学部・学科が揃い、たとえ目指す方向が変わっても、さまざまな選択肢とそれを学部を越えてサポートしてくれる京都橘大学ならではの環境がある。
「二つの学科で学んだことは私のなかで繋がっていて、確実に活きています。これからも自分らしくいられる場所で、やるべきことに打ち込み、支えてくれた人たちに誇れる自分でありたい」と語る菅さんは、今、自分の選んだ場所に力強く立っている。
健康科学部心理学科(2023年4月1日より総合心理学部総合心理学科)
井戸川真奈さん
京都橘大学で心理学を学ぶ井戸川真奈さん。心理学への入口は、対人関係に悩んでいた中学生の時、書店で心理学の本を手に取ったことだった。本を読み進むにつれ、自分の悩みを越えてこころの働きに興味を持ちはじめ、「人の悩みによりそいサポートできる心理師になりたい」という思いを抱くようになった。
進学先を探すなかで、京都橘大学では臨床心理士と公認心理師のダブル取得を目指せることを知った井戸川さん。心理学の分野を幅広く学べること、少人数教育でサポート体制が手厚いことにも魅力を感じた。「京都橘大学の総合心理学部では、こころの健康に関わることだけではなく、例えば消費者行動やマーケティングといった社会に関わるものなど、他大学にはなかなかないような領域も学べます」自分が学びたい臨床心理の領域以外にも、社会・産業、発達・教育、行動・脳科学、健康・福祉心理があり、多角的に考察する力が身に付いたという。「入学して嬉しかったことは、先生との距離が本当に近いことです!専門家である先生方にいつでも気軽に質問できるなんて、贅沢ですよね」
知れば知るほど奥深い心理学。学びを自分のものにするには、実践で経験値を上げることが重要だ。例えば、発達に特性のある子どもたちを招いて実施した運動会。学生たちで企画し、教員や放課後デイサービスの方のアドバイスを受けながら、遊びを通してさまざまな症状をもつ子どものサポートを行った。「実践を通して『運動会を首尾よく進行するには、最初にかけっこなど動き回る競技をやるのがよい』といった、経験に基づく知識の大切さを知りました。逆に、心配してあれこれ準備しても子どもたちは難なくこなすことも多く、人のこころには正解がないことに気付かされ、思わぬところでこちらが元気をもらうこともありますね」ほかにも、デイサービスと連携した「こどもサポート研究会」や「京都府自死対策カレッジ会議」に参加するなど、活動は精力的だ。「京都橘大学は、自分がしたいことを明らかにできる環境が整っていること、また、その実践の機会が多いことも魅力ですね」
こころの働きを知るようになってから、自信がない自分も受け入れられるようになったという井戸川さん。「人前でものすごく緊張する自分が嫌になってしまうこともありました。でも、心理学で言うと緊張にも理由があって正常なことだと理解できたんです。もっと楽に考えていいんだよと、中学生の自分にも伝えてあげたいですね」両親や中学時代を知る友人たちに、「ポジティブになったね、いきいきとしているよ」と言われるそうだ。
目指す方向も見えてきた。「もともとは子どもと関わる機会が少なく、コミュニケーションがうまく取れるか不安もありましたが、エネルギッシュな子どもたちといざ交流してみると、不安が吹き飛び、言葉にできないくらい大きなパワーをもらえたんです。今は子どもに関わる心理職に就きたいと思っています」そこで、先生の紹介で学童のアルバイトも開始。一見心理学に直結しないようなことでも経験はすべて自分の糧になると気付き、何にでも飛び込んで多くの価値観に触れるよう心掛けている。
「将来はスクールカウンセラーになって、子ども社会が抱える課題の解決に携わりたい。子ども自身が自分の強みを見つけて挑戦する力、だめでも乗り越えられる力を持てるよう、よりそえる存在になりたいですね」そのためにも、大学院に進学して公認心理師の資格取得を目指しながら、研究を続けたいという思いがある。「今は将来を限定するのではなく、いろんな選択肢があることを踏まえて勉強に専念し、可能性を広げたいと思っています。柔軟さを持ちながらも、自分が学んだことや実践を通して感じたことを、自分の中の軸として確立したいです」と微笑む。その笑顔は、心理学の学びによって成長できた自信、そして、自分の可能性を広げて将来を選ぶという、期待と喜びに満ちている。
健康科学部臨床検査学科
田淵みくさん
高校生のときに受けた職業適性診断で、自分の性格や資質に合う職業として臨床検査技師という仕事があることを知った、田淵みくさん。もともと、「何かを決めるときは、ホームページはもちろん体験談や口コミ情報など徹底的に調べるタイプ」だという彼女は、臨床検査技師とはどんな職業で、どうすればその仕事に就けるかを研究。その結果、専門学校も含め数ある選択肢のなかから、臨床検査技師と、より専門性の高い細胞検査士の同時取得を目指せる、京都橘大学を選んだ。さらに高い合格率と就職実績の確かさも決め手に。「私には、人や社会の役に立つ仕事をしたい、そのために確実に資格を取得して自立したいというビジョンがあります。だからオープンキャンパスで体験実習に参加するなどして、本当に自分に合っているかを確かめました」
大学生活はイメージ通り。楽しく学業に励んでいたが、ある時実習で失敗をしてしまう。「学んだことを、私が本当の意味で理解できていないまま臨んだのが原因です。苦手な臨床化学の分野だったのですが、テスト対策のために勉強しても何の意味もなく、上辺だけの学びではダメだと反省しました」もともと、何ごとも自分のなかで納得して進めるのが、田淵さんのスタイル。そこから、勉強への姿勢も変わったという。苦手分野を持たないよう意識的に心掛け、一人では難しいと思ったら友人と一緒に学ぶなどして、理解を深めると共に上手にモチベーションを保ちながら取り組んだ。そうしてチャレンジしたのが、「心電図検定3級」の取得だ。
心電図検定の受験者は、医師や看護師、臨床検査技師など実際に臨床に携わっている医療スタッフが多いが、「先生から、頑張れば学生でも取れると聞いて挑戦しました」そこには、将来、社会や人の役に立つために、より力を付けたいという強い思いがあったという。3回生での病院実習で、現役臨床検査技師のプロフェッショナルな仕事ぶりを目の当たりにしたことも大きな転機に。「今までの自分は、まだまだ受け身でした。チーム医療に貢献する人材になるには、主体的に行動を起こす姿勢が必要だと実感しました」
臨地実習は学びの宝庫だと田淵さんは語る。「多くの知識が得られますし、自分の未熟さに気付く機会でもあります。現場で学ぶ授業や実習が充実していることで、専門分野の理解が深まります」就職後も、現場経験を積みながら超音波検査士などさまざまな資格を取得して、キャリアを磨きたいという田淵さん。まずは、症例数が多く技師の活躍の機会が多い総合病院への就職を考えている。
「臨床検査技師は、病気の早期発見をすることで患者さんの負担を軽減できる、やりがいのある職業です。医師たちに頼られ、“田淵がいないと困る”と言ってもらえるような検査技師になりたいです」そのために必要なことは何か。田淵さんは4年間で身に着けた学びを力に、卒業後のビジョンを見据えている。
発達教育学部児童教育学科
辻野達也さん
発達教育学部児童教育学科で学ぶ辻野達也さんには、ふたつの目標がある。ひとつは、現役の小学校教諭である母や小学5年生のときに出会った恩師のような、“理想の先生”になること。もうひとつは、自分の力で、“教育現場の働き方改革”をすることだ。
理想の先生とは何か?そう思ったきっかけは?と彼に問えば、何か特別なことがあったわけではないと語る。「とにかく学校に行くのが楽しくて。でもその裏には、子どもが安全で楽しく学べるようにという、先生方の並々ならぬ思いと努力を知ったのです。母を通してそれに気付いた私は、子どもの思い出をキラキラ輝かせられるような、記憶に残る先生になりたい、またそれが叶う教育環境を築きたいと思うようになりました」
児童教育学のなかでも発達教育の分野に興味を持っていた辻野さんは、教員採用試験の現役合格率が際立っていた京都橘大学への進学を選択。また、文理含めた9学部15学科が1キャンパスに集結する学びの環境も、大きな決め手となった。将来教育に携わるうえで、学生時代から多様な価値観に触れることは必須と考えたのだ。
明確な目標を掲げて入学した辻野さんだが、大学での学びは期待をはるかに超えていたという。授業はグループワークが多いため、自然と主体的に考えて行動する姿勢や協働で課題に取り組む力が身に付いた。学内には様々な学習スペースがある。分からないことがあれば気兼ねなく教員に聞ける環境のため、疑問はすぐに解決できる。また「経験豊かな先生から、教科書には載っていないリアルな学校現場の話などを直に教わることができ、これは絶対自分の糧になる!と、日々手応えを感じて学んでいます」課外活動も、将来を意識して選択。塾でのアルバイトは、最初は中学生を、続いて小学4年生を担当。子どもの年齢に応じた接し方を体得した。また、児童教育学科生によるサークル活動「げんkids★応援隊」では人生初のリーダーに。子ども達との交流会を企画・実施するなかで、子どもだけでなく、仲間や小学校など社会との関わり方も身を持って体験。学習と実践、トライアンドエラーを重ね、目標へと着実に近づいている。
教職は、子どもの成長に直に携わる尊い仕事だと目を輝かせる辻野さん。だが一方で、教育現場の厳しい側面にも真正面から向き合う。「教員の人手不足もあって、日々遅くまで授業の準備に追われている母の姿を見てきました。事務的作業がもっと効率化され、先生方が本来力を注ぐべき、児童・生徒との関わりや授業づくりに専念できるのが理想です」文部科学省が推進するGIGAスクール構想により、現在の教育現場ではICT活用が積極的に進められている。「先進技術の導入によって教員の業務が効率化され、保護者や児童とのコミュニケーションも取りやすくなることで、働き方の改善や、いじめや不登校といった問題の解決につながるでしょう」さらに、教職の魅力がもっと知られれば、慢性的な人手不足も解消するだろうと夢は広がる。「そのためにも、卒業後は地元京都市の小学校に勤務して、教職でしか味わえない醍醐味や魅力をどんどん発信していきたいですね」教員として、子どもへの教育だけでなく、さらにその環境改革も視野に入れて学ぶ辻野さんは、将来教育現場の様々な場面で活躍することだろう。
「本学の支援体制はダントツだと感じています」学部での学びはもちろんのこと、さまざまな課外活動の機会に恵まれ、専門知識を実践的に習得できる環境や、教員免許取得に向けての相談ができる教職保育職支援センターなど、包括的なサポートがあることが京都橘大学の魅力だと語る辻野さん。辻野さんは大学からの手厚いバックアップを背中に感じながら、最初の扉となる教員採用試験の突破を目指す。
健康科学部救急救命学科
濱田 美咲季さん
人の命を救う。傷病者の初期対応を担い、命を守る最前線に立つ救急救命士。その仕事に強いあこがれを抱いた濱田美咲季さんは、地元・福井を離れ、京都橘大学の健康科学部救急救命学科に入学した。
看護師である両親の影響もあり、当初は看護学部への進学を考えていた濱田さん。ところが身近な人の訃報に接し、「家族が突然倒れたとき、自分に何ができるだろう」と考えるように。そんな折に救急救命士の存在を知り、目指す道が明確になったという。やるからには突き詰めて修得しようと専門の学科がある大学を徹底リサーチした彼女は、「毎年、国家試験合格率がほぼ100%の京都橘大学なら間違いなさそうだと、オープンキャンパスに参加してみました。そこで設備や学びの環境にふれ、さらに、京都マラソンの救護ボランティアで心肺停止になった方を助けたという話に感銘を受け、ここだ!と思ったんです」
入学後、濱田さんの知識欲と行動力は増すばかり。「学部には医師の教員もいて、救急救命士目線だけではなく医師からみた救命士に求められるものなど、多角的な視点や思考を持てるようになりました。また、消防のシミュレーション訓練見学といった実習の機会が豊富なのも魅力。現場での経験に長けた先生ばかりなので、教科書だけでは知りえない学びがあります」救急救命サークルTURFでの活動、救護ボランティア、心肺蘇生法の指導などキャンパス外での活動も広がる。救急救命士の公開訓練や消防学校への見学、さらに海外の状況が気になれば英語の論文を読むなど、精力的に活動の幅を増やした。すべてのチャンスを逃さないと語る濱田さんは、「知れば知るほど自身の未熟さもわかり、学びたいことが増えるんです。これからも経験を重ね、技術や知識を確実に自分のものにしていきたいです」
同級生からの信頼も厚い。ある授業で、難解な内容を濱田さんが資料化したものが分かりやすいと評判になり、上回生の授業でも使われるなど学科のなかで頼もしい存在だ。とはいえ、実習では思うようにいかず落ち込むことも。「不安を解消するには経験を積むしかない。大学では最新設備を整えた実習室が自由に利用できるので、いつでも仲間と練習できるのが強みです」入学前に想像した通り、向上心が高く同じ志を持つ仲間に囲まれている。士気を高め技術を磨き合うには最高の環境だ。
救急救命士は、一次救命者として傷病者を医師のもとへ運ぶという重責を担う。そのため濱田さんはできる限りの医療知識も身に付けたいと考えている。「傷病者がどんな症状でどんな状態にあるかなど、医師たちが求める情報を的確に把握し伝えるには、十分な知識が必要です。同時に、心配するご家族など周りにも気を配れるような、全方位から傷病者を守れる救命士になることが目標です」
彼女の思いは初志一貫。夢は福井の消防機関に勤め、両親をはじめ地元の人たちの命を守ることだ。「彼女がいれば大丈夫」、傷病者やご家族にそう安心してもらえるような救急救命士になるためにも、濱田さんは選択肢を広げながら目標に向かって歩み続ける。
文学部歴史学科
中屋 和佳葉さん
「戦国武将の妻たちは、どんな暮らしを送っていたのだろう?」小学生の頃から日本史に興味があった中屋和佳葉さんは、地元高知の偉人・坂本龍馬をはじめ、歴史で語られる人物は男性ばかりであることにいつしか疑問を抱くように。女性の歴史を知る術がほとんどないことに気付くなか、数少ない女性史学の本から女性史研究の第一人者である田端泰子先生(京都橘大学名誉教授)の存在を知る。「京都の地で歴史を学びたい。特に女性史に踏み込みたい。それなら女性歴史文化研究所を有する京都橘大学だろう」と、導かれるように文学部歴史学科への進学を決めた。
「専攻は中世史です。女性史など、特に興味ある分野をとことん掘り下げて研究できる環境に大満足です」と目を輝かせる中屋さん。また、日本と世界について時代や領域を横断して学ぶなかで、深く突き詰めるだけでなく、視点が広がる楽しさと意義も実感したという。「女性史とは単に過去を振り返り調べることではなく、例えば、働き方に関する課題や女性という存在を通してジェンダーについて考えるといった、未来につながる学問です。私のように好きなことがはっきりしていると興味の方向は偏りがちですが、歴史学科に入ったことで、世界史や、世界の女性に関する問題にも視野が広がりました」また、学生に限らず一般の方も聴講できる女性歴史文化研究所の講義もあるなど、多様に学べる環境があるのも京都橘大学ならでは。だからこそ「“好き”からどんどん世界が広がっていくことを感じた」と振り返る。
そんな中屋さんの趣味は、小学生から続けている書道だ。また、課外活動では居合道部の部長も務めた。「武道に興味があったのと、大学生になったら何か新しいことを始めたいと思って入部しました」居合道は、型を身につけ技の美しさを極める競技だ。書道と同様、コツコツ鍛錬するのは彼女に合っていて、その過程が楽しいという。「歴史研究も同じです。興味のあることを、突き詰めて考えるのが向いているかも」また、部長になったことで思わぬ収穫もあった。部員個々人の力量や資質を見てコミュニケーションをとる力、そして、部を運営するために全体を見渡し判断する力が鍛えられた。「研究も同じです。個人プレーのようにみえて、調査・研究や展示発表は協働作業。進行管理や優先順位の付け方など、全体を見渡し仲間とサポートし合う大切さを学びました」
現在は、卒業論文に取り組んでいる。選んだ時代は、戦国期で、京都から四国に土着した公家大名の動向。ニッチなテーマだが、女性史と同じく「資料が少ないなら自分で研究し、後世へ残そう」というのが中屋さんだ。今の目標は、大学院に進学し、卒論テーマをさらに掘り下げて研究すること。そして将来的には博物館の学芸員になることを考えている。「高校で扱う日本史は近現代が中心ということもあり、それ以前の歴史や女性史の魅力を、私が企画する展示などを通じて広く知ってほしいんです。女性史の研究は、生涯のライフワークとして続けていきたいと思っています」どこまでも興味が広がる世界で、彼女は自身の選択肢を歩み続ける。
文学部歴史遺産学科
羽間綾音さん
2022年9月、高校生だった羽間綾音さんは多くの専門家監修のもと、京丹後の海で遺構を発見。高校生ながらに先陣を切って発掘を遂行する姿が地元メディアを賑わせた。
きっかけは高校2年の時に手にした、水中考古学に関する一冊の本だ。もともと歴史学が好きで、地元が海に近いことから水辺に馴染み深かったという羽間さんは「私にぴったりの学問だ!」と直感。魅力に取りつかれ、「地元・京丹後市の海で調査してみたい」とクラウドファンディングで資金調達を開始。周囲の協力もあり、専門家たちを巻き込んだプロジェクトに発展、そして海中調査が実現した。遺構発見後も水中遺跡への情熱は留まることなく、進路を選ぶ際にも「海に眠る水中遺跡のことをもっと知りたい」という思いが軸になった。京都橘大学なら、古墳の発掘や琵琶湖での水中調査を行うなど学びが自分の興味と合致することを知って、文学部歴史遺産学科に進学する。
入学後、彼女が感じた歴史遺産学科の魅力は大きく3つだ。「1つは、遺跡現場での測量実習や古墳の発掘作業といったフィールドワークが多く、実践的に学べること。毎回、貴重な体験の連続です」専門機材の扱い方をはじめ、先生や実際に文化財の保護・活用に取り組む方々から直接教わる知識は、現場でないと得られないことが多い。考古学の分野は多岐にわたるため、より多くの事象に触れ経験を積む必要があると羽間さんは考えている。2つ目は、水中考古学に限らず、陸上にある史跡や美術工芸史なども幅広く学べることだ。「歴史は人の営みによって刻まれるものなので、例えば、このお寺の仏像は、あの築港跡を経由し運ばれたかもというように当然リンクします。総合的に見えてくると、より当時の姿が浮き彫りとなり興奮しますね」そして3つ目は、向上心にあふれた歴史好きたちが集まる環境だ。同級生はみな歴史が好きという共通項はあるものの、好きな時代やジャンル、また出身地など生まれ育ったバックグラウンドはさまざま。多様な情報から興味の幅が広がるだけでなく、地域を比較することで遺跡などの特色をより深く理解できるなど、あらたな視点が増えていく。
羽間さんは、坂本城の石垣調査で自ら潜って調べようと、自発的にダイビングのライセンスを取得。アルバイトでも、寺や遺跡での発掘や記録作業などを行っている。部活は、筝曲部に所属。「演奏することが好きで高校時代は吹奏楽部に所属していました。大学ではあたらしいことにチャレンジしたい!と思い、和の文化に触れたくて、筝曲部を選びました」大学生活を送るなかで行動も変わったという。「京都橘大学にはさまざまな選択肢が用意されており、挑戦を後押ししてくれます。ですが、なんでもやみくもにやるのでは、自分の軸がぶれるかもしれません。夢に向けて、実現をイメージして選択するようになりました」そう語る彼女の目には、すでにプロの意識が感じられる。
授業を通して、文化財は思った以上に日常生活のそばにあることを知って驚いたという羽間さん。「特に京都や滋賀は歴史遺産の宝庫。調べれば、家や学校の下が遺跡ということもあります。それらがどのように保存・記録されてきたかを調べるのは楽しいですよ」だが一方で、工事などで壊されてしまうなど、知られないまま失われる遺跡も多々あるのが現実だ。「さらに水中遺跡は、ふだん見えないだけに存在すら認知されません」しっかりと記録を残すことは、歴史遺産を保護・活用し後世に伝える第一歩。そのためにも、卒業後は京丹後市を拠点に発掘や研究を続け、水中遺跡の魅力を発信する仕事に就きたいと語る。地元にこだわる理由は、未調査の部分が多く、水中遺跡発見の期待が大きいから。未知なるロマンを求めて、飽くなき好奇心が彼女を突き動かす。
健康科学部理学療法学科
佐々木杏夏さん
好きなことに関わり続ける選択肢に気付いたのは、理学療法士を目指す佐々木杏夏さん。彼女が選んだのは、好きなスポーツをサポートする道だ。子どもの頃から様々なスポーツに打ち込み、中学から始めたバスケットボールでスポーツ推薦での進学実績もある佐々木さんの進路は、ある出来事が岐路となった。「小学生の頃から共に歩んできた親友が、じん帯断裂という大けがをしたのです」親友のリハビリをきっかけに、理学療法士という仕事を知った彼女。専門職として損傷を負った友人によりそう姿を見て、「将来はアスリートを支える医療の道に進みたい」という気持ちが芽生えたという。
京都橘大学は看護や救急救命など医療系にも強い大学で、多くの卒業生が医療現場で活躍していることを知っていた佐々木さん。一切の迷いはなく、健康科学部理学療法学科への進学を決断する。「看護学部への進学も考えましたが、理学療法士はスポーツに最も近い場所でよりそえる職業のため、私らしいと思ったんです。“好き”が活かせる場所だと確信しました」入学後は、女子バスケットボールサークルに所属。彼女のあらたな挑戦が始まった。
国家試験合格を目指す専門的な学びについていけるかという不安があった入学前。「でもいざ授業が始まると、勉強しなきゃ、ではなく、もっと学びたい!とポジティブな意識に変わりました。体の仕組みなど初めて知ることが多くて、興味の幅が広がっています」自身がスポーツをやってきただけに、筋肉の動きなどは身をもって理解できた。また、最新設備を備えた充実の学内設備に加え、地域の施設や病院と連携した多くの実習機会が用意されているのも理学療法学科の特徴だ。授業で得た知識が、実践を通して確かな技術として身に付くのを実感した。
教員から推薦されて1回生から始めたクリニックでのアルバイトも、学びを後押ししている。「リハビリ助手として患者さんにストレッチ指導やトレーニング指導を行うのですが、自分の未熟さを思い知らされることばかりですね」うまくコミュニケーションが取れず療法に必要な情報が得られなかったり、また伝えられなかったり。先輩療法士の接し方や技術を見て学び、実践を重ねるしかないと佐々木さんは語る。「気付いたのは、ただ治そうという意識で技術を高めるだけではダメだ、ということ。患者さんは体や心はもちろん生活習慣も異なりますし、治療の目指す方向も個々それぞれ。真の意味で相手によりそい、信頼関係を築くことが大事だなと学びました」
現在は、卒業研究として「視覚感覚情報が体幹の動的姿勢制御に及ぼす影響」をテーマに選び、これを国際論文誌に投稿することを考えている。同時に、学生の参加は少ない理学療法士の学会にも発表予定だ。視覚情報を遮った状態から脳波や筋肉の活動に作用するメカニズムを検証する研究で、将来的には、例えば腰痛治療への応用など、理学療法におけるあらたなアプローチとなることを目指す。「昨年、ゼミの先輩の論文が国際論文誌へ掲載されたことに、大きく感化されました」大学の風土としてある「もっとチャレンジしてみよう」という雰囲気が、彼女に刺激を与えている。
理学療法は、スポーツに限らず、脳・神経や呼吸器疾患といった難病にも介入する仕事だ。将来はスポーツ分野や運動器疾患のサポートを突き詰めたいと話す佐々木さん。「理学療法士は、患者さんの体と心に向き合いその方の将来を支えるという、AIには真似のできない仕事です。専門の知識と技術により見えない問題点も抽出し、目標達成に向けて共に歩めるような理学療法士になりたいです」スポーツを愛する、体の専門家として。佐々木さんは患者にとっての最良のパートナーを目指す。