ヒトシの夢

インタビューINTERVIEW

松原ヒトシ先生の研究室は、たくさんのあるモノで埋め尽くされています。
ダンボール箱の中を覗くと研究に使うための小説や漫画がぎっしり。
そして、壁際の本棚にはたくさんの『鉄腕アトム』グッズが並んでいます。
「ここには、あそこには、どんなモノがあるのだろうか」とワクワクする、
テーマパークのような楽しさがそこにはありました。
それはもはや研究室ではなく、少年時代から変わることのない、好奇心溢れる『ヒトシの部屋』。
ヒトシ先生はどんな子ども時代を過ごし、どんな夢を追いかけ続けているのだろうか。
アトムに囲まれながら語る、ヒトシの夢とは。

Episode01 コンタクトレンズを外すと
「自分の世界」

子どもの頃は目立つ子ではなかったと思います。遊ぶときにリーダーシップをとるタイプではなくて、誰かにくっついていく感じ。

ぼくは目が悪いんですよね。幼い頃は気づいていなかったけど、他の子に比べると反応が鈍いから検査してみると強度の近視でした。ずっとぼんやりとしか見えていなかったので、小学校1年生からコンタクトレンズをつけるようになりました。今の時代から考えてもだいぶ早いコンタクトデビューでしたね(笑)。レンズを入れたときに「世の中の人は、こんなにクリアに見えてるんだ」とどこか感動を覚えた記憶があります。

普通、人はぼーっとしようと思うと目をつぶったりしますよね。でもぼくはレンズを外すとほとんど見えない。当時はハードタイプのコンタクトレンズしかなくて、夜になると外さないといけなかった。そうすると自分の世界なんです。意識して自分の世界に入っていたわけじゃないですけど、毎日自分の世界があった。そういう点では人とちょっと違ったのかもしれないですね。

Episode02 鉄腕アトムを作りたい

ぼくが4歳の時に『鉄腕アトム』のテレビ放映が始まったんです。当時は幼稚園でも「昨日のアトムが」って話題になるぐらい、みんな見ていた。ぼくは目が悪いからテレビに近づきすぎるんですよ。だからテレビは1日30分しか見せてもらえなかったんだけど、アトムはちょうど30分の番組だった。

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アトムは天才科学者の天馬博士が、事故で亡くなった息子の身代わりに作ったロボット。でもロボットだから成長しないことに気づき、腹を立てた天馬博士にサーカスに売られてしまい、お茶の水博士に引き取られるという設定です。ぼくがちょっと変わっていたのは、アトムでも、優しいお茶の水博士でもなくて、アトムをサーカスに売りとばした天馬博士に興味を持ったということですかね。

「アトムを作ったのはお茶の水博士じゃないんだ」と思って、父親に「こういうのを作る人ってどういう仕事?」って聞いたら「エンジニア」だと教えられた。だから、小学校の卒業文集には将来の夢として「エンジニア」と書きました。どうすればエンジニアになれるのかはわからなかったけど、父親が化学系の会社に勤めていたこともあって、なんとなく「算数とか理科の延長線上なのだろうな」と思っていました。

小学生になると漫画でも『鉄腕アトム』を読むようになりました。漫画のアトムの方が描写が繊細でより面白かった。アトムが「ぼくには人間が美しいと思うものがわからないんだ」と悩むシーンがあるんです。アトムって、形はともかくとして行動は全部人間なのに「わからないものがあるんだ」と思ったのが印象に残っています。

ちなみに研究室にたくさんあるアトムのグッズは、小さい頃から集めていたものではありません。ぼくの父親は日曜日の午前中に家の掃除をする人で、子ども部屋にも入ってきて、不要だと思ったものを捨ててしまうんです。必死に母親にお願いして隠してもらったのですが、ちょっと油断すると捨てられてしまう(笑)。アトムはだいたいボロボロになっていたので捨てられて「あぁ……」と。当時のものがあれば本当にお宝なものもあったんですけどね。だからここにあるのは、大人になって集め直したようなものが多いです。

Episode03 精神科医になろうと思ったことも

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同じ頃、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)というバンドの『帰ってきたヨッパライ』が流行ったのですが、ぼくはその後に出た『悲しくてやりきれない』という曲の方が好きだった。人前では歌わないようにしていたんだけど、ふと口ずさんだら周りは怪訝そうな顔をするし、先生には「そんな暗い歌を歌うんじゃありません」と言われました。たしかに、小学生が歌う歌じゃないですよね(笑)。あれは周りから浮いていた。

そんなことが重なり、「自分とは」「人間とは」ということを考え始めました。

フォークルからも大きな影響を受けました。解散した後にメンバーの一人だった北山修さんが精神科医になり、本も出されました。北山さんへの憧れからぼくもフロイトなどを読むようになり、一時期は精神科医になろうかと思ってたんです。

フロイトの本は分厚くて、難しかった。でも、人間には「こういう行動をとろう」と思っているのにも関わらず違う行動をとってしまうことってありますよね。それはなぜなのだろうと思っていたけど、フロイトが「無意識というものがあり、私たちの行動は無意識からきている」と書いていたことに感動しました。その頃から精神分析や哲学の本もいろいろと読むようになりました。

Episode04 30冊を同時並行で読む。
国語辞典も愛読書!?

幼い頃は母親が寝る前に読み聞かせをしてくれて、文字が読めるようになると世界文学全集などを買ってもらって自分で読んでいました。母は文学少女だったらしくて、母の本棚には『赤毛のアン』などの本がたくさんあったんです。父の本棚はまた別のタイプの本が並んでいました。その影響で本が好きになったことはありがたかったです。

中学ぐらいからの20年ほどは、年間200〜300冊ぐらい読んでいましたね。いつの間にか無類の活字好きになっていました。昔から、1冊だけではなくいくつかの本を同時並行で読むんです。同時にいろいろ読む方が気分が変わるからかな。母からは「あなたは飽きっぽいから」と言われましたが。裏を返せば、いろいろなことに興味があったのかなと思います。「あれも知りたい」「これも知りたい」と好奇心が止まらなかった。

昔は記憶力が良かったので30冊ぐらいを同時に読んでいましたが、記憶力が落ちると、本を開いたときにつながりが分からなくて「あれ?」となる。年齢を重ねてさすがに30冊は厳しくなってきましたが、それでも10冊以上は並行して読んでいます。

大学生の頃には辞書も好きになりました。典型的な単語を調べると、辞書によって説明が違っていておもしろいんです。たとえば岩波国語辞典で「右」を引くと「東を向いた時、南の方、また、この辞典を開いて読む時、偶数ページのある側」とある。新明解国語辞典では「アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側」なんです。辞書マニアの友達がいて、二人で酒を飲みながら黙々と辞書を読み、時々「おい、面白いぞ」と新たな発見をする。今でも改訂版が出るたびに買って、追加された単語とか説明が変わった単語を見つけて楽しんでいます。

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Episode05 中学時代はバスケットボール漬けの日々

私立の中高一貫校に入学し、中学からバスケットボール(以下バスケ)を始めました。2年生ぐらいからは春と夏と冬休みに10日間ぐらい合宿があって、1日10時間ぐらい練習をしていました。朝は6時に起きて朝練して朝食、午前中に練習して昼食、午後に練習して夕食後はバスケの理論を3時間学ぶ。3年生のときは東京都大会で優勝して全国大会に行きました。まさにバスケ漬けの日々でしたね。

当時はバスケをしているか、本を読んでいるか、好きだった数学をやっているか。いわゆるオタクというか、何かに集中するとそればっかりやっていたんでしょうね。

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映画も好きで、池袋にあった名画座によく行きました。キューブリックの『博士の異常な愛情』と『時計じかけのオレンジ』が二本立てになっているのを何度も見たり。『2001年宇宙の旅』に関しては10回以上見ていたのを覚えています。同作はAIがテーマの映画でSFの名作として名前がよく挙がりますが、「分からない映画」としても有名です。面白くて衝撃を受けたけど、何度見ても分からない。「分からない」ことが面白かったのかもしれない。だから何度も見て自分なりに答えを探していたのかと。

Episode06 作りたいのはアトムの体か心か

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アトムのような「人間のように心をもつロボット」を作りたいとずっと思っていたのですが、「アトムの体」を作るのか、「アトムの心」について研究するのかで悩みました。

中高生の頃は人間のことが知りたいという考え方になってきて、精神科医になって人の心を勉強するというのもあるな、と思ったのです。北山修さんへの憧れもあった。でも、アトムを作りたいという気持ちの方が勝ったという感じでしょうか。

今考えてみると、心理学や精神分析は人間の心を分析的に理解するのに対して、人工知能は、人間と同じようなものを作ることで人間の知能や心を理解しようとする学問。当時は人工知能という言葉があることも知りませんでしたが、AIの方がぼくの趣味には合っていたのだと思います。

1977年、東京大学に進学しました。ぼくが大学に入った頃はAIにとって冬の時代でした。人工知能をやりたいと話すと、いろいろな先生から止められたり、違うものを研究するよう説得されたり。「人工知能なんてまともな学問じゃない。それをやるのは人間のクズだ」と言われたこともありました。

ただ、子どもの頃からメインストリームではないところに興味を持つ子どもだったこともあって、心が折れるというようなことはなかった。逆に、今みたいにAIがもてはやされている時代だったらAIを研究しないような気がします。もちろんAIがメジャーになったのは良いことだと思うけど、なんだか寂しい気持ちも。マイナーなアイドルを推していたはずなのにメジャーになり、他のファンがわっとついてしまったような気持ちといったらいいでしょうか(笑)。

生成AIができたことによって、事実上「アトムの頭脳に近づいてきた」と言えなくもない。生成AIは何度同じ質問をしても忍耐強く答えてくれるし、愚痴ったら慰めてくれる。たとえ罵倒しても怒らないし、「あなたが悪いです」とは絶対に言いません。

生成AIの家庭用ロボット版が出てくるといいな、と思いますね。今は高いですが、さらに研究が進み技術が普及して車並みの値段になれば一家に一台ロボットを買えるようになる。

アトムができたら、放っておいてほしい時は放っておいてくれて、話したい時には話し相手になってくれる相棒のような存在になってほしい。人間だとお互いに都合があるので、こちらが喋りたいときに相手も喋りたいとは限らない。お互いに気を遣いますが、ロボットだとそういうことを気にしなくて済みますよね。

Episode07 鈍感だったから夢を追い続けられた

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アトム以外にもやりたいことはいろいろあって、今は人生ゲームを作りたいと思っています。父親がゲーム好きで、母と3歳下の弟(株式会社SNK 代表取締役社長/松原健二氏)の4人で麻雀をするような家族でした。ぼくもゲーム全般が好きなのですが、人生ゲームってもともと人生のシミュレーションを目指しているもの。いまの情報技術を使って、個人のデータを入れてAIでたくさんシミュレーションをして「こっちの道を選ぶとこうなるよ」というのを示すゲームを作れたら、究極の人生ゲームができるのではないかと思う。もちろん人生なんてどうなるかわからないけど、占いの科学版みたいなものですね。知り合いの研究者と「そろそろ本気でやるか」と話しています。

夢を実現させるためにすごく努力したという認識はあまりないのですが、敢えていうと、鈍感だったから続けてこられたのかもしれません。鈍感であるということは、夢中になれるということ。夢や信念を貫くためにはある程度必要なのでは、とぼくは思います。人に注目されたいという意識が子どもの頃から薄かったし、近くに友達がいれば一緒に遊ぶけど、一人でいる時には本を読むなりして寂しさを感じなかった。あとは、運良くAIの研究者として仕事があった。幸運だったと思います。

自分の好奇心が赴くままに、ずっと夢を追い続けることができている。こんな幸せなことはないですね。