細川先生

後白河院の山科御所と
山科家領山科東荘

―京都橘大学周辺の中世史―

細川涼一  京都橘大学名誉教授

 京都橘大学のある京都市山科区大宅は、沢殿さわどのとも呼ばれた後白河院の山科御所があり、公家の山科家領の荘園、山科小野荘(山科東荘)が所在した場所でもあります。そこでここでは、大学が立地する大宅郷の中世の歴史を見ることにします。

1. 後白河院の山科御所(沢殿)と丹後局

「後白河天皇画像」
東京大学史料編纂所所蔵模写 東京大学史料編纂所蔵
「後白河天皇画像」
東京大学史料編纂所所蔵模写
東京大学史料編纂所蔵

 京都橘大学と奈良街道の甲ノ辻を挟んだ反対の西側、現山科区大宅沢町には、後白河院(1127〜92)の別荘、沢殿とも呼ばれた山科御所がありました。沢殿がはじめて記録に見えるのは、仁安2年(1167)のことです。飛泉ある素晴らしい景観であったので、後白河院は御所を造営しました。沢殿には、上御所・下御所のほか、持仏堂として無量光明院がありました。沢殿の池は1960年代の宅地造成で埋められるまで残されていました。そして、後白河院は建久3年(1192)3月13日の臨終に際し、沢殿とそれに付属した山科小野荘(現山科区大宅、東野・西野・西野山)の領地を、最後の寵妃となり、摂関家の九条兼実によって楊貴妃にも例えられた丹後局たんごのつぼね高階栄子(1149?〜1216)に譲りました。2005年のNHK大河ドラマ『義経』、および2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、後白河院の横で取次をしていた女性が丹後局です。そして、山科小野荘は丹後局からさらに前夫平業房なりふさ(後白河院の近臣であったが、治承3年(1179)に後白河院と対立した平清盛に殺された)との間に生まれた藤原(冷泉)教成のりなり(1177〜1239)に譲られました。丹後局の子、教成が山科家の祖です。教成は後白河院の臨終に際して、遺体を棺に入れる役人も務めました。

2. 山科家の祖教成と山科御影堂

 教成は故後白河院の多年の恩に報いるため、嘉禄年中(1225〜27)、後白河院の三十三回忌を期して大宅里に後白河院の自筆とされる後白河院の御影画像と阿弥陀如来画像(山越阿弥陀画像)を祀る山科御影堂を建立しました。後白河院山科御影堂は阿弥陀院とも呼ばれたように、二幅の画像を西向きに懸けて西の稲荷山に夕陽が落ちるのを礼拝し、西方極楽浄土を観想する宗教施設でした。その広い意味での境内の四至は、東は岩屋神社東裏に当たる御所山、西は奈良街道、南は赤坂(赤土原。現京都橘学園サッカーグラウンド)、北は大塚との境の御所田でした(図1参照)。すなわち、奈良街道より山側の大宅の東半分になります。御影堂の建物自体は、甲ノ辻を挟んで沢殿の反対側(山側)に当たる、岩屋神社旧参道に沿った現京都橘大学バスターミナルの辺りにありました。この場所(大宅山田)にかつてあった池は、江戸時代には大宅寺前池と呼ばれましたが、もともとは中世に山科家が山科御影堂の池として、雨乞いのために掘った池です(図2参照)。山科御影堂は遅くとも応永12年(1405)以前、醍醐寺三宝院によって焼かれ、後白河院の御影画像もその際に破滅に及ぼうとしたので、当時の当主、山科教言のりとき(1328〜1411)は、後白河院陵のある東山法住寺に画像を預けました。そして、山科家が山科御影堂で主催していた後白河院祥月命日(3月13日)の御陪膳ばいぜん(後白河院の御影画像の前に食膳を掲げ、山科家当主が給仕する)、命日(13日)の御影精進供の仏事も、御影堂焼失後は法住寺で行われるようになりました。山科御影堂にあった阿弥陀如来画像(山科言国ときくに〈1452〜1503〉の時代までは存在したことがわかっています)は現存していませんが、後白河院画像は、後白河院ゆかりの法住寺や三十三間堂(蓮華王院)を管理した東山の妙法院の所蔵となって、奇跡的に現存します(現重要文化財)。

図1 山科東荘(大宅郷)付近図
図2 『東海道分間延絵図』より大宅村

3. 山科家の記録(日記)の持つ意味

 山科家は明治維新に際して多くの旧貴族が東京に移った際も、上冷泉家(藤原定家の子孫)とともに京都に本拠を置いた数少ない家です。室町時代に内蔵頭くらのかみ御厨子所別当みずしどころべっとうとして朝廷の財政面を担当した山科家の歴代は、『教言卿記』『山科家礼記』(家司大沢氏の日記)『言国卿記』『言継卿記』『言経卿記』などの貴重な日記を今日に伝えました。家祖教成が拝領した山科小野荘は、南北朝時代にその西半分を山科西荘(現山科区東野・西野・西野山)として醍醐寺三宝院に渡さざるを得ませんでしたが、現山科区大宅(および椥辻なぎつじ)に当たる山科東荘は中世を通じて経営を維持し、これが山科家の名字の地となりました。山科家は、天皇家との関係で、山科七郷全体(ほぼ今日の山科区に当たる)の住民を禁裏警固番役などに際して徴集する権限もありました。山科家の日記は、とくに応仁・文明の乱から戦国時代に向かう動乱の中で、山科七郷の住民が、外部の守護勢力の入部を結束して拒んだ動向を知る上でも、貴重な山科の史料です。

付記
(図1)は1917年(大正6)7月、大日本帝国陸地測量部発行(1909年測図)の5万分1地形図「京都東南部」を利用し、これに加筆した。また、(図2)は、『東海道分間延絵図』第23巻 大津追分 伏見 淀、東京美術、1985年、別冊解説篇のトレース図により、加筆を行った部分は括弧で括った。

推薦図書

◉『京都』林屋辰三郎 岩波新書 岩波書店 1962年
 原始・古代から近現代まで、京都の歴史を知ることができる古典的名著。

◉『日本の歴史9 南北朝の動乱』佐藤進一 中公文庫 中央公論新社 2005年
 初版は1965年だが、南北朝内乱の時代の政治史をめぐって、いまだ本書を越える本はない。中世史の歴史叙述の一つの到達点。

◉『現代思想 網野善彦 無縁・悪党・「日本」への問い』 青土社 2015年2月臨時増刊号
 網野善彦は、宮崎駿が『もののけ姫』を発想する原点ともなった日本中世史研究者である。その没後10年に当たって、網野の仕事を回顧した本。私も「網野善彦論ノート」という一文を寄稿している。



PROFILE

細川涼一  ほそかわ りょういち  京都橘大学名誉教授
東京生まれ。中央大学大学院博士後期課程単位取得退学、大阪大学博士(文学)。元京都橘大学学長。現在は名誉教授。日本中世史。主な著書に『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年)、『感身学正記』1・2(平凡社東洋文庫、1999・2020 年)。



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