尾下成敏

大名の居所と
行動から見えること


尾下成敏  京都橘大学文学部歴史学科教授

 1570年代から90年代までの織田信長・豊臣(羽柴)秀吉の時代を「安土桃山時代」または「織豊期」と言います。一般社会に浸透し教科書でも用いられるのは、「安土桃山時代」のほうですが、この時期への関心が高い方や16・17世紀の研究をされている方は、「織豊期」という言い方を用いる傾向があります。以下では、秀吉が天下人の地位に就いたこの時期を「織豊期」と言うことにします。

1 なぜ居所と行動を追うのか

 織豊期の研究をする場合、まず目を通すべき史料として、武士が出した書状(手紙)と公家・僧侶・武士の日記があります。書状のほとんどは年代記載がないので、まずはその作成年代を確定する必要があります。
 書状の中に有名な出来事と関わる内容が記されていれば、何年作成と判断するのは簡単です。しかし、そうした事柄が記されていない場合、何年作成と判断するのは、とても困難です。では、どうすれば良いのか?
 それをすれば絶対に答えが出る、というものではありませんが、天下人や大名らが何年何月何日にどこに居て、何をしていたのかを跡付けることで、書状の作成年代が分かる時がしばしばあります。近年では、そうした天下人・大名の居所と行動を示唆する日記や編纂物などを収集し、彼らの居所を確定または推定した研究成果、例えば『織豊期主要人物居所集成【第2版】』(藤井讓治編、思文閣出版、2016年、以下『居所集成』)が出され、およそ20年前と比べると、彼らの居所と行動を押さえることは容易になりました。しかも、これらの成果によって作成年代が確定された書状も増えました。また最近では、居所と行動を踏まえて、これまでの政治史の叙述に修正をせまる研究も公表されています。
 居所と行動を押さえることは、地味で手間のかかる作業ですが、この時代の研究を進める上で欠かせない作業になっています。

洛中洛外図に描かれた上杉景勝邸「洛中洛外図屛風」(部分)尼崎市立歴史博物館蔵

2 大名が京都・伏見に居住させられたことの意味

「「鉄黒漆塗紺糸威異製最上胴具足」(伝上杉景勝所用)新潟県立歴史博物館蔵
「鉄黒漆塗紺糸威異製最上胴具足」
(伝上杉景勝所用)
新潟県立歴史博物館蔵

 江戸幕府の三代将軍徳川家光の時代に参勤交代制が確立します。この制度は大名たちに隔年での江戸参勤を義務付ける制度です。大名の居所という点から参勤交代制を見ると、期間を限定する形で大名を国元から引き離し江戸に居住させる制度と言えるでしょう。
 こうした制度のルーツをたどる時、注目すべきは、豊臣政権が定めた大名在京制です。天正17年(1589)、秀吉は諸国の大名に対し、妻をともなう形での京都滞在を命じます。これにより、大名はその妻とともに京都の自身の屋敷で暮らすことになります。そして、文禄4年(1595)に秀吉の命で大名屋敷が京都から伏見へ移転した後は(京都と伏見は別の都市です)、大名らは伏見で暮らすことを義務付けられました。
 秀吉に従う大名のうち、徳川家康・前田利家・上杉景勝の行動を見てみましょう。典拠は『居所集成』です。まず文禄2年(1593)から慶長3年(1598)までの6年間を見ると、彼らの京都・伏見滞在期間が国元滞在期間よりも、かなり長いことに気づきます。文禄2年は朝鮮出兵の最中で、秀吉が明との和睦を望んだことにより、朝鮮半島や名護屋(現佐賀県唐津市)から多くの大名が京都へ帰還した年です。慶長3年は秀吉が死去した年です。秀吉が明との和睦に乗り気になった頃から彼が亡くなる頃までの間、家康・利家・景勝の行動に右のような特徴が見られるのです。
 この京都・伏見における大名在京制は、参勤交代制の原型と言うべき制度です。参勤交代制の場合、大名は将軍から帰国許可をもらった上で国元へ帰り、1年間はそこで暮らすことになります。しかし、豊臣政権下の大名在京制は、今知られる事例で言えば、秀吉から帰国許可をもらっても、国元滞在期間は長い時で5ヵ月程度という状態でした。ただ、参勤交代制と大名在京制は、天下人(将軍)のお膝元(江戸・京都・伏見)に大名たちを集住させることが可能、という点では共通するところもあります。こうした点から、大名在京制は参勤交代制の原型と見なされるのです(横田冬彦「豊臣政権と首都」〈日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年〉)。

3 家族の居所から見えること

 このように、大名在京制により、大名の妻も京都や伏見の屋敷で暮らすことを義務付けられました。例えば上杉氏の場合、当主の景勝はもちろんのこと、彼の正室菊(武田信玄の娘)も京都や伏見で暮らしていたことが公家の日記などから分かります。また重臣直江兼続の妻せんや直江夫婦の三人の子供たち(娘の松と満、幼い息子の景明)も京都や伏見に住んでいました。このことも公家の日記から判明します。兼続の家族が京都や伏見にいたのは、彼が上杉家を取り仕切る存在だったからでしょう。
 この時代にくわしい方なら、もうお分かりでしょうが、景勝の妻や兼続の家族が上杉氏の本拠春日山(現新潟県上越市)や会津(現福島県会津若松市)ではなく、京都・伏見にいたことは、こうした人々が半ば人質として秀吉のもとへ差し出されたことを意味します。豊臣政権のお膝元に居住させたのは、反乱を防ぐためでしょう。
 豊臣政権下の上杉氏は北陸や東北に広大な領国を有し、政権の関東・東北支配の要とも言うべき存在でした。また景勝は秀吉の死の直前に政権を支える五大老の一人となります。このように、彼は天下人秀吉を支えた有力大名の一人ですが、そのような上杉氏でも、豊臣政権のお膝元に人質を置かざるを得なかったわけです。これらの事実から、豊臣政権が上杉氏に一定の信頼を寄せながら、同時に警戒も怠っていなかったことを我々は読み取るべきかもしれません。

『集古十種』の直江兼続像(松平定信 編『集古十種』古画肖像之部より 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

推薦図書

◉『石田三成伝』中野等 吉川弘文館 2017年
 石田三成の伝記で、彼に関わる古文書の釈文(史料を活字化したもの)とその現代語訳が付されている。織豊期の古文書読解の参考書としても活用が可能である。

◉『江戸時代のお触れ』藤井讓治 日本史リブレット 山川出版社 2013年
 江戸幕府の「お触れ」について解説する。江戸時代の古文書を学ぶ際の参考書としても活用できる。

◉『論点・日本史学』岩城卓二ほか編 ミネルヴァ書房 2022年
 古代から近現代までを対象に、合計154の論点について、研究動向や議論の背景を分かりやすく解説する。


PROFILE

尾下 成敏  おした しげとし  京都橘大学文学部歴史学科教授
京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻(日本史学)博士後期課程。博士(文学)。専門は日本中・近世史。主な著作に、『京都の中世史 第6巻 戦国乱世の都』(吉川弘文館 2021年 共著)、「戦国織豊期の蹴鞠界と庶民」(『日本歴史』893号 2022年)、「戦国織豊期飛鳥井家の破子鞠の会について」(『藝能史研究』234号 2021年)などがある。



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