岩井茂樹

帝国の逆襲?

―中国の強さと歴史―


岩井茂樹  京都橘大学文学部歴史学科教授

 

中国はフランケンシュタインになるか

 125年前、G・E・チャーチ(1835〜1910年 英国の王立地理学会副会長、南米探検で名をはせた米国人)は、ブリストルで開催されていた英国協会の地理学分科会の議長として、次のような発言をしました。

しかし、中国の発展に関連しては別の面もある。すなわち、かの国の発展を促進することによって、我々はフランケンシュタインを立ち上がらせることになるかも知れない。中国が世界の大いなる工場になって、我々は中国に取って代わられてしまうだろう。つまり、我々がかれらに供給するのではなく、かれらが我々に供給するようになる可能性がある。

The Times, Sept. 14, 1898, p.8

 この発言の3年前、日清戦争の敗北によって中国の弱さが露呈するや、列強国がそれぞれの勢力範囲を劃定しようとする「利権獲得競争」が始まりました。「瓜分かぶん」(メロンの切り分け)とよばれる中国分割の危機がせまると、光緒こうちょ帝(在位1875~1908年)は康有為こうゆうい(1858~1927年)らを起用して近代化改革にのりだします。ところが、朝廷内の保守派と西太后(1835~1908年)による政変クーデタがおこり、光緒帝は幽閉、改革派官僚は処刑か亡命という事態をむかえます。これが中国の1898年でした。
 列強の進出に反撥した華北の民衆のなかに、西洋の事物やキリスト教会を破壊する排外の動きがひろまり、これが義和団事件に発展します。清国から列強国にたいする宣戦布告、八カ国連合軍の天津・北京占領という惨劇をまねき、1901年、大清帝国は滅亡の一歩手前に追いこまれることになります。仇討ちは手痛い敗北に終わりました。
 その後、革命と日本の侵略戦争、内戦の半世紀をへて人民共和国が成立し、国内から列強の勢力を一掃しました。しかし、政策の失敗やイデオロギーと権力をめぐる闘争によって、経済の立ち後れをまねきました。フランケンシュタインのように中国がしかばねのなかから立ち上がるという預言は大外れだった、誰しもがこう考えたでしょう。

ロシア:熊、日本:太陽、ドイツ:ソーセージ、イギリス:ライオン、米国:鷲、フランス:カエル
出遅れた米国は、スペインから奪った植民地フィリピンを足場とし「機会均等」を唱えてアジア進出を狙っていた。

「世界の工場」から先端技術大国へ

 ところが、21世紀の今日、Made in Chinaが世界中にあふれ、「世界の工場」はまぎれもなく中国です。また、高速道路や鉄道、橋梁、港湾などインフラ整備が猛烈な勢いで進められ、中国は大量の鉄鋼やセメントを呑みこむ「世界の工事現場」でもあります。モノ作りだけでなく、情報・通信、人工知能、宇宙開発など先端的な技術においても、欧米や日本を凌駕する勢いです。日本を巻きこみつつある米中戦略競争は、生産のみならず高度技術においても中国が優越することへの懼れに根ざしています。預言したチャーチ自身もここまでの急展開は考えていなかったでしょう。
 小説の怪物は自分を造った科学者フランケンシュタインに復讐を果たします。アヘン戦争以来、中国にたいする武力進出の先陣を切っていたのは英国でした。英国をはじめとする列強国が植民地を開発することによって怪物を育て、これに逆襲されるかもしれないという懸念がチャーチの預言として現れたわけです。皇帝ではなく共産党が君臨する新たな帝国として復興した中国が復讐する怪物だと言うつもりはありません。しかし、昨今の「戦狼せんろう外交」、太平洋を米中で二分しようとする発言や尖閣諸島をめぐる衝突を目のあたりにすると、かつて中国を蹂躙じゅうりんした日本はすでに逆襲されているようにも感じます。

先進性と競争、自由

 中国はゼロから崛起くっきしたのではありません。歴史的な素地がありました。産業革命以前、中国は世界最大の経済大国でした。1800年ころの世界人口は約10億人、そのうち3億人が清朝支配下の住民でした。なんとシェア3割、ダントツでした。現在の中国の人口は約14億です。世界人口は80億を突破したといわれていますから、世界における中国のシェアは2世紀間に大きく低下したもの、当面のあいだインドとならんで人口大国でありつづけます。
 中国は古くから大人口をささえるだけの生産力を育んできました。また、ガラス質の釉に覆われた美しい磁器などは、遅くとも12世紀までに他国にはないハイテク製品の地位を確立していました。日本では16世紀末から17世紀前半にかけてようやく中国や朝鮮からの技術導入によって磁器生産がはじまります。ヨーロッパではさらに遅れ、18世紀初頭になってマイセンなどで磁器生産が開始されました。もちろん、中国の技術がその基礎でした。また、中国の絹製品はその多様と精巧において群をぬいていました。量だけでなく、質においても中国の技術は先端的であったわけです。
 文化において中国が豊かな成果を産みだしてきたことは言うまでもありません。しかし、その社会が活発な競争をうながす仕組みを古くから備えてきたことはさらに重要です。現代の社会経済は自由な競争のなかで発展をとげてきましたが、中国はそれを先取りしていたと見るべきかもしれません。試験による官僚の選抜や、競争による生存戦略につながる均分相続の制度がすでに10世紀の中国では定着していました。居住や生業についても、さしたる制約なしに選択できました。専制統治という外皮は、自由と競争の社会によって支えられていたのです。

 身分やイエ・ムラ・ギルド・領主制などの束縛と保護が小さいことは、社会を流動させます。その不安定さが大規模な動乱、社会の破壊をまねくこともしばしばでした。そして、その流動性や不安定のなかから、個人の才覚と競争をつうじ、自発的な社会組織やあらたな秩序を生みだすことを重ねてきました。長い目で見ると、中国の復活とおおいなる発展、あるかもしれない逆襲は、こうした歴史の曲折と社会・文化の基盤のなかで必然となったのだ、という思いを強くします。

推薦図書

◉『科挙 中国の試験地獄』宮崎市定 中公新書 中央公論社 1963年
 科挙に合格して官僚になることは理想でした。進士や挙人の資格を得て、合格の席次におうじて職位が割りあてられるのですが、そこからも勤務評定の制度や人間関係による競争でした。ただ、合格しなくても教師や官僚の幕友(ばくゆう)(私設秘書)、商人として知識を活かすという生き方もありました。早々に官界に見切りをつけ、学者・医者、文人や仏僧として生きる人も少なくありませんでした。

◉『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』宮崎市定 東洋文庫508 平凡社 1989年
 原著は1940年、宮崎氏の処女作として刊行されました。ダイナミックな社会の捉え方と明晰な歴史解釈によって、中国史の展開を描いた名著。北方から流入した遊牧狩獵系の民族と、農業にねざして貴族的な文化を生みだしていた漢人社会とが接触し、相互作用のもとでどのように融合していったのか?80年前の書物ですが、まったく古さを感じさせません。

◉『耶律楚材やりつそざいとその時代』杉山正明 中国歴史人物選 白帝社 1996年
 モンゴル帝国史研究に大きな足跡をのこした杉山氏の最初の著書です。耶律楚材は契丹(キタイ)の名門に生まれ、モンゴル支配下でチンギス・カンとオゴデイに仕え、名臣としてその生き方と業績が喧伝されてきた人物です。ところがその伝記資料には楚材のやくわりを誇大に書いたり、事実を歪めたりした所が多々あるとして、虚像を一枚一枚はぎ取っていきます。伝記としては異色ですが、鋭い史料批判によって実像にせまる議論はスリリング。在庫のあるうちに入手をお勧めする一冊です。


PROFILE

岩井茂樹  いわい しげき  京都橘大学文学部歴史学科教授
1955年、福岡県生まれ。1980年9月に中国に留学、南開大学と北京大学で2年間学ぶ。京都大学文学部助手、京都産業大学経済学部講師などをへて京都大学人文科学研究所教授、2011年から同研究所所長。2021年、京都大学名誉教授、2023年から京都橘大学文学部教授。主著は『中国近世財政史の研究』(京都大学学術出版会、2004年)、『朝貢・海禁・互市―近世東アジアの貿易と秩序』(名古屋大学出版会、2020年、日経・経済図書文化賞)。



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