小林裕子

美術史研究の一例

蓮華王院本堂
千手千眼観音菩薩像

小林裕子  京都橘大学文学部歴史遺産学科教授

 本学のある京都には、日々多数の修学旅行生が訪れます。斯く言う私も修学旅行で京都奈良を巡り、その魅力の虜になったひとりでした。僅か数日の滞在であっても、朝靄のなかで響く鐘声や掃き清められた寺院の境内に心を躍らせたものです。当時の私は美しい建築や仏像の数々に圧倒されるばかりで、それぞれが制作された事情、材料や技法に留意する余裕は殆どありませんでした。しかし数百年、千数百年以上前に制作された優れた文化遺産は、人々の深い信仰と弛まぬメンテナンスがあってこそ守られてきた至宝です。そして現代に生きる我々も、これらを次代に間違いなく継承していく責任があるのです。その責任を果たすために対象を正確に理解し、いかなる手段で未来へ保持継承していくか考えることが必要となりましょう。本学の歴史遺産学科では、京都という地の利を生かして文化遺産についての調査研究を重ね、専門的な知識を身につけたうえで作品をみる眼を養います。そして、こうした学修により社会に羽ばたく力を培うことを目標としているのです。

緊張をともなう実習のあとは皆で談笑するひとときもあります。

 美術という単語は明治に登場したもので、日本美術史と名付けられた学問も同様に明治以降に形成されました。美術史学においては時代による様式の変遷や作品が生まれた背景、作品そのものの研究、海外との影響関係の問題など多岐にわたって取り扱いますが、歴史学(文献史学)との相違点は「作品」と直接的に向き合うことでしょう。とはいえ、しっかりとした実証研究を実現するためには、歴史学で頻繁に用いる文献や資料、ほかに経典や建築図面、考古資料なども扱わねばなりません。そこで小稿では美術史研究の一例として、高校生の皆さんにも馴染み深い三十三間堂についての研究を紹介しようと思います。

 天台宗妙法院門跡蓮華王院本堂、通称三十三間堂をはじめて訪れた人は、下足から仄暗い空間を通り抜けた先に延々と伸びる細長い堂内に驚き、さらに堂内右側の階段状の須弥壇しゅみだんにびっしりと安置された夥しい数の千手千眼観音菩薩像(以下、千手観音像)に驚き、続いて最前列に並ぶ異形の二十八部衆像に重ねて驚くことでしょう。東面して建つ堂宇どううには、中央に中尊丈六坐像、両脇に500軀ずつの立像、中尊背面一軀、計1002軀の千手観音像が安置されています。

 蓮華王院は後白河院が居した七条の仙洞御所せんとうごしょ法住寺殿ほうじゅうじどの南殿みなみどの北側に造営されたランドマーク的存在で、この地は平安京から東国、大和国へ繋がる交通の要衝でもあり、かつまた風光明媚な別業べつごう地でもありました。『百練抄ひゃくれんしょう』長寛二年(1164)12月17日条や『愚管抄ぐかんしょう』同年同月条では、後白河院の御願を承けて平清盛が造営、導師を興福寺別当尋範じんはん呪禁師じゅごんしを天台座主俊円として供養がおこなわれたことが伝えられています。今でこそ約1000軀の観音を安置する堂宇といえば蓮華王院ですが、後白河院の父鳥羽上皇の御願を承けて清盛の父忠盛が造営した得長寿院とくじょうじゅいん等先例があり、盛んな造寺造仏が其所此処でみられる時代でした。当時は貴族たちが造寺造仏の功徳により西方極楽浄土へ往生せんがために阿弥陀像や観音像を造像することがさかんで、天喜元年(1053)に定朝が完成させた宇治平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)の如来像もそのひとつだったのです。

 しかしながら残念なことに創建から数十年の建長元年(1249)、姉小路室町の火事が飛び火したために蓮華王院は全焼、仏像は中尊の一部と脇仏のうち150数軀が残るばかりでした。文永3年(1266)に再興が成り、現在の蓮華王院本堂には創建時つまり長寛造像のものと再興像が混在することになりました。実際に堂内に立ってみると、最前列の数軀に「創建仏」と記した札が立てられていますが、この創建像と再興像の面部を比較すると、皆さんもその明らかな違いに気付くに違いありません。というのも蓮華王院創建の時代には、『春記』に「尊容如満月」と記される、平等院で定朝がつくった阿弥陀像の様式が大流行しており、創建像の面部も同様に丸みが強く平面的で優美な顔立ちをしています。一方、再興像は鎌倉時代に好まれた写実を具現したかのような立体感に富む顔立ちであるとともに、院派や円派、慶派の仏師が各々個性的な表現を造形しています。こうした事情を含みつつ蓮華王院本堂の脇仏を拝観すれば、各々の面部のつくりの違いは単なる千通りというわけではなく、時代性や仏師に起因するものだということが理解できるでしょう。

 歌人であり、書家、東洋美術史家でもあった會津八一あいづやいちは、「美術史学研究とは実物作品の研究と文献史料の研究を車の両輪の如く駆使する学問である」との言葉をのこしました。さきの蓮華王院本堂脇仏の面部各々の相違は、まさに文献による歴史的背景の解明と平安時代末期から鎌倉時代にかけてつくられた仏像の様式研究とを合わせみることで噛みしめることができる好例でありましょう。美術史研究に触れたことがない人も、学外見学や調査を通して次第にその深く静穏な世界に魅了されていくことでしょう。



PROFILE

小林裕子  こばやしゆうこ 京都橘大学文学部歴史遺産学科教授
早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)専攻博士課程。博士(文学)。専門は日本古代仏教美術史。著書・論文に『興福寺創建期の研究』(中央公論美術出版)、主要論文は「八世紀制作の立像光背に関する一考察―聖林寺十一面観音立像の光背残欠を中心に」(『佛教藝術』288)。



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