岡島陽子

古代の「働く女性」
を紐解く


岡島陽子  京都橘大学文学部歴史学科専任講師

 2020年の平城宮跡第621次調査で、次の木簡が発見されました。

    年五十九         □
□牟須売     日参伯弐拾玖
    左           □
               〔坊ヵ〕

「平城宮跡で初めて出土した女官の出勤日数を記した考課木簡 奈良文化財研究所蔵
平城宮跡で初めて出土した女官の出勤日数を記した考課木簡 奈良文化財研究所蔵

 これは、古代の役人の年間の勤務評定に使われた木簡と考えられます。律令では、年間勤務評定のことを「考課」といい、このような木簡は「考課木簡」と呼ばれています。律令の規定では、複数年の考課の結果によって位階の昇進が可能となり、官僚社会の中で出世することができます。
 この木簡は何某の「牟須売(むすめ)」という名前の人物について、年齢が59歳、平城京の左京を本籍地とし(「左」は左京を示す)、この考課が行われた年の昼間の勤務日数が329日だった(「日」は昼間の勤務日数)ことが記されています。木簡は上端部分が欠損していますが、以前に出土した考課木簡から、本来は上部に去年と今年の考課の結果・官職・位階・「牟須売」の氏(ウジ)が書かれていたと考えられます。
 名前の最後につく「売」は、女性名を示すジェンダー符号で正倉院に残された奈良時代の戸籍でも確認できます。これまで男性役人の考課木簡は多数発掘されてきましたが、この木簡ははじめて発見された女性役人の考課木簡なのです。木簡は平城宮跡東方官衙地区の基幹排水路SD2700という遺構から発掘されており、出土層位から奈良時代前半ごろのものと想定されます。

 では勤務評価を受けた何某の牟須売はどういった女性だったのでしょうか。古代の朝廷に勤務する男性役人に「二官八省」と呼ばれる官僚組織が存在することは知られていますが、女性の役人にも「後宮十二司」と呼ばれる官僚組織が律令に規定されていることはあまり知られていません。何某の牟須売の正体は、この後宮十二司に所属する女性役人だった可能性が高いです。古代の官僚制度は律令の規定のもとに運用されますが、男女で所属する機構・職務が区別された分業社会となっています。女性役人の職務は天皇の近くに侍することを第一として、男性役人と天皇との間の取次や天皇の日常生活に奉仕することが規定されています。役人になる女性は、氏女という都の氏族出身者と采女という地方の郡司層出身者でした。
 古代国家を運用していく上で女性役人は重要な存在でした。平城太上天皇の変に登場する藤原薬子も後宮十二司のうち内侍司の長官として勤務する女性であり、「御言に非らぬ事を御言と云いつつ、褒め貶すこと心に任せて(天皇の言葉でないことを天皇の言葉といって伝え、褒美や処罰も心に任せて)」行うなど、女性役人の立場から国家を左右することもありました。

 ところで、木簡の何某の牟須売の職業については、もう一つ可能性があります。男性役人が所属する組織である縫部司という省庁に、縫女部という女性の役職がありました。彼女たちは後宮十二司の女性役人とは異なり、平城京内の婦女から雇用されて裁縫業務に従事する技能役人でした。木簡で何某の牟須売の本籍地が平城京の左京である点は一致しています。
 裁縫は平安時代においても女性の重要な職務でした。清少納言が記した『枕草子』には、急ぎの縫物を藤原定子に仕える女房たちで分担して行っていたところ、命婦の乳母が裏表を反対に縫ってしまうエピソードなどがありますし、藤原道綱の母は『蜻蛉日記』の中で夫である藤原兼家のために衣裳を繕うのを誇る話が出てきます。

 木簡では何某の牟須売は年間で329日勤務していました。古代の暦では、1年間は354日(閏月の年は約30日多くなる)であり、律令の規定によれば女性の勤務は半月に3日間の休暇が設定されています。考課を受ける最低勤務日数は240日で、以前に発見された男性役人の勤務日数も300日前後であることから、何某の牟須売は明らかに超過勤務です。古代の役人の給与は固定給なので、残業や休日出勤の手当はつきません。平安時代初頭に同じような超過勤務が問題になったことがあります。弘仁10年(819)に土木建築業務を担う修理職という省庁から、炊事担当者と現場監督以外の技能労働者の勤務日数が年間333日から350日になっていることへの不満が上申されています。「此の拠る所は、未だ法式に見えず。人木石に非ず。何ぞ能く堪うること有らんや。(勤務日数について根拠となるところは、法律には存在しない。人は木石ではない。どうして堪えることができようか。)」という訴えは現代のブラック企業勤めへの悲哀に通じるものを感じざるをえません。訴えの結果、勤務日数は250日以上300日以下とする裁定が出されました。このように現場の技能労働者の勤務超過が常態化していたとすると、同じく裁縫を専門技能として働く縫女も同様に超過勤務を行っていたかもしれません。

 何某の牟須売が天皇の側近として仕えた女性役人だったにしろ、裁縫を職務とする技能役人だったにしろ、年齢的にベテランでしょうから、現場では重用されつつも多忙な朝廷勤務だったのかもしれません。将来、木簡の上端部や別の女性役人の考課木簡が発見されれば、新たな考察も可能となるでしょう。しかしこうした考察を可能とするのも、現存する史料に基づき精緻な研究が積み重ねられてきた結果です。古代史と聞くと遠い別世界のように感じるかもしれませんが、史料をひとつひとつ読み解いていけば実に鮮やかに当時の様相を明らかにすることができるのです。

「源氏物語絵色紙帖 玉鬘」重文 京都国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

 


PROFILE

岡島陽子  おかじま ようこ  京都橘大学文学部歴史学科専任講師
愛知県生まれ。京都大学大学院文学研究科日本史学専攻。専門は日本古代史。主な論文に「女房の成立」(『日本歴史』853号、2019年)、「後宮十二司の解体 蔵司・書司を中心に」(『洛北史学』24号、2022年)、「采女の変質」(『続日本紀研究』429号、2022年)などがある。



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