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建学の精神

「力を実業教育に注ぎて、
将来自営独立の実力を得しめん」

[創立者]中森孟夫(なかもり たけお)

[創立者]
中森孟夫(なかもり たけお)

[経歴]
1868(明治元)年、滋賀県蒲生郡(現、日野町)の農家に生まれる。
1890(明治23)年、泰西簿記学校を設立。その後、京都高等学院などを設立。
1902(明治35)年、京都橘学園の前身となる京都女子手芸学校を京都市内に設立。
1909(明治42)年、同校校主辞任。
1913(大正2)年から1919(大正8)年まで、ハワイ、ホノルルの日本人学校などで教鞭をとる。
1946(昭和21)年、死去。

[解説]
京都橘大学と京都橘中学校・高等学校の前身は「京都女子手芸学校」(1902年設立)です。創立者である中森孟夫は、青年時代、小学校で教鞭をとる傍ら、村の青年を集めて夜学を開き読み書きを教えました。この経験の中で中森は若者への教育の大切さに思い至りました。そして、17歳で京都に遊学し、当時、近代化にとって不可欠な知識だった簿記を教える「泰西簿記学校」を23歳で設立しました。その後、女性が経済的に自立(自営独立)することの重要性を認識し、「女子のための実業教育(技芸教育)の学校」として刺繍や裁縫を教える「京都女子手芸学校」を創設しました。同校は良妻賢母主義の女子教育が中心だった当時にあって、珍しく、同時に社会的に意義ある学校でした。後に中森は同校を離れますが、場所や校種は変えつつも生涯一貫して学校教育に力を注ぎました。

中森孟夫は一貫して「変化の激しい時代においてこそ、自営独立するためにも知識と技能を修得することが大事である」と考えました。また、「学習者の自然と湧き出てくる要求に応えることが私の使命である」とも考え、生涯教育に情熱を注ぎ、多くの学校設立に取り組みました。

京都橘学園の建学の精神である〈力を実業教育に注ぎて、将来自営独立の実力を得しめん〉には、こうした中森の想いが端的に現れています。

本学園の教育内容は中森の時代から今日に至るまで大きな発展を遂げました。しかし、「生徒学生に自立して生きる力を付けたい」という想いは、今日まで変わることなく脈々と引き継がれています。