田端泰子本学名誉教授が京都新聞「天眼」に「諫言を受け入れなかった政治の行く末」と題するコラムを執筆

 田端泰子本学名誉教授が京都新聞「天眼」に「諫言(かんげん)を受け入れなかった政治の行く末」と題するコラムを執筆した。寛正元(1460)年から2年間にわたって続いた、室町時代最大の飢饉(ききん)「寛正の大飢饉」は、京都にも大きな被害をもたらし、各地からの流浪者が1万人を超えた。寛正2年の餓死者は8万2千人に及んだといわれる。このときの執政者足利義政は、室町邸内の会所や泉殿の造営を続けた。同年2月に後花園天皇は義政にいさめる漢詩をつかわしたが、漢詩を受け取った直後は、いったん作事を止めた義政だが、すぐに室町第修築を復活させ、自らの趣味に没頭する生活に戻ってしまった。また、生母日野重子は義政が斯波氏の内紛に介入することに2度にわたって諌止したが、義政は介入し続けた。諫言を受け入れなかったことで、応仁の乱以前に、乱の原因を全てそろえたのは、他ならぬ将軍義政であったと田端本学名誉教授は結んでいる。

【2020年7月19日 京都新聞に掲載】


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