田端泰子本学名誉教授が京都新聞「天眼」に「『大樹』と慕われた足利義尚」と題するコラムを執筆

 田端泰子本学名誉教授が京都新聞「天眼」に「『大樹』と慕われた足利義尚」と題するコラムを執筆した。室町幕府8代将軍足利義政は、文明5年12月に子息義尚を元服させ、自ら加冠した。この年義尚は9歳で征夷大将軍に任じられ、第9代将軍となった。しかし9歳の将軍に政務を任せることはできず、義政と日野富子(義尚の母)、日野勝光らが執政、後見の役目を担った。中でも義政は幕府奉行人の訴訟裁決のうち、寺社に関する裁決権を一手に握り手放さなかった。だが、富子の大乱終結策のおかげで、幕府の官吏である奉行人による裁判は復活し、奉公衆(番衆として仕える武士)らも将軍義尚の元に集結し、義尚から所領安堵を受ける側近集団も結成された。長享元(1487)年2月、23歳の義尚が病気になると、京中では地下人(一般人)に至るまで皆平癒を祈願されたという。このころ義尚は公武から「大樹」と呼ばれている。大樹とは後漢の故事に基づく慎み深い将軍に対する尊称。多くの政治的権限は義政に握られたままの義尚だが、論語・孝経や日本書紀・兵書を学び、和歌や蹴鞠(けまり)、書法に優れ、「文武兼修」の人、「文武之器」として世評は高かった。学問文芸の道に精進し、将軍としての器を大きくしている義尚に、世間の人々は「大樹」という賛辞を贈り、公・武・庶民はこぞって義尚を称えた。この時点で「寄らば大樹の陰」のことわざが確立し、のちの征夷大将軍も「大樹」と呼ばれたと考えられる。同年9月、病の癒えた義尚は近江征討したが、この2年後、25歳の大樹将軍は惜しまれつつ鈎(まがり)の陣で病死したと結んでいる。

【2020年12月27日 京都新聞に掲載】

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