足利義持自筆御内書
応永34年(1427)11月14日付
猶そな□(た)の
進退、此事
よるへからす候、
為心得申候
越後守事、中\/
無是非事候、さり
なから尚々一味同心に
本にかわらす可被致
忠節、自管領も
可被申候
十一月十四日 (花押)
伊豆守殿
[読み下し]
猶そなたの進退、この事よるべからす候。心得のため申し候。
越後守事、なかなか是非無き事候。さりながら尚々一味同心に、本にかわらず
忠節致さるべく候。管領よりも申さるべく候。
応永34年(1427)9月に播磨・備前・美作三カ国の守護を兼ねる赤松義則が死去し、子の満祐が家督を継ぐと、翌10月、足利義持は赤松氏の本国播磨を召し上げ、将軍家御料国として赤松持貞(越後守)に与えようとします。持貞は赤松氏の庶流春日部家の当主で、義持の近習です。嘆願が容れられなかった満祐は、京都の邸宅に火を放って家臣共々播磨に下り、抵抗の意を示します。怒った義持は備前・美作も取り上げ、追討軍を派遣、赤松方も白旗山城や城山城に拠って抗戦します。
ところが、11月10日、故足利義満(義持の父)の側室高橋殿の名を騙る何者かが赤松持貞の密通等の悪行を訴えたため、持貞は義持の命により13日に切腹、月末には満祐も宥免されて事なきを得ました。
本書状は持貞切腹の翌日、義持が同じ赤松一族の伊豆守貞村に宛てた自筆の御内書で、越後守持貞の自害は致し方のないことだが、そなた(貞村)はこれまで通り忠節に励むよう述べ、今回の事件が貞村の進退に影響を与えることはないと保証しています。貞村は持貞の近親で、このあと春日部家を継ぎ、六代将軍義教に重用されました。
足利義持はこの翌年、応永35年(正長元年)正月18日に死去するため、死の二カ月前の文書です。義持の公家様花押はその院号勝定院殿の「勝」字をデザインしたと考えられていますが、右側中程の張り出し部分が年を追って長くなることが知られています。義持最晩年の本文書の花押は張り出し部分が最大になったものと言えるでしょう。








