前田利長書状
〔年未詳〕8月27日付
加増遣候礼儀として鯣三百枚到来候、令満足候、謹言、
八月廿七日 利長(黒印)
(奥墨引) 嶋九蔵殿 肥
[読み下し]
加増遣わし候礼儀として鯣三百枚到来し候、満足せしめ候、謹言、
織豊期の前田家当主利長(1562~1614)が家臣の嶋九蔵へ出した無年号の書状(手紙)です。内容はつぎのようになります。
①利長が嶋に加増(領地の加増ヵ)をおこなった。
②嶋がその礼として利長に鯣(イカの内臓をとりさり、開いて干したもの)300枚を献上した。
③これを受け満足した利長が、礼状としてこの文書を出した。
文書に押された黒印の印文は「秀」で、利長の礼状に使用されることが多い印です。文中の鯣は、祝いの品として贈られたものです。
利長の父利家が亡くなった慶長4年(1599)の前田家は、当主の利長が北加賀(石川県)と越中(富山県)を、利長の弟でその後継者でもあった利政が能登(石川県)を統治していました。慶長5年の関ヶ原合戦で徳川家康と反家康派が対立したさい、利長は家康に味方しましたが、利政はどちらにも味方せず、戦後、彼は改易(所領没収)の処分を受けます。能登国と南加賀(石川県)は利長に与えられ、ここに彼は、現在の石川・富山両県全域を支配する所領高119万2000石余りの大大名となりました。いわゆる「加賀百万石」の始まりです。
その後、男子のいない利長は、弟の利常を後継者とし、慶長10年、彼を前田家の当主とし隠居しました。利長が亡くなるのは、慶長19年5月です。
宛所の嶋九蔵は、慶長10年頃は100石の所領を持つ侍でした(慶長十年富山侍帳)。所領高の規模は小さいと言ってよく、有力な家臣ではなかったと考えられます。
文書の奥の「肥」は、利長の名乗り「肥前守」です。文禄2年(1593)9月からこの世を去るまでの間、使用された名乗りです。とするなら、年号が無いこの文書は、早くて文禄3年8月、遅くても利長死去の前年に当たる慶長18年8月に出されたと考えられます。








