毛利秀元書状
〔年未詳〕2月26日付
為年甫之儀、御状并樽代一包送給令祝着候、猶慶事重畳可申承候、恐々謹言
甲斐守
二月廿六日 秀元(花押)
湯壱岐
御返
[読み下し]
年甫の儀として、御状ならびに樽代一包送り給い、祝着せしめ候、猶慶事重畳申し承るべ
く候、恐々謹言
江戸時代初期の長府毛利家当主秀元(1579~1650)が「湯壱岐」という人物へ出した無年号の書状(手紙)です。内容はつぎのようになります。
①「湯壱岐」が年甫(年始)の祝いとして、秀元に書状と樽代(祝儀として差し出す酒代)を贈った。
②これを受け喜んだ秀元は、花押を据えたこの文書を礼状として出した。
サインとも言うべき機能を持つ花押ですが、文書で使用された秀元のものは「花押型」と呼ばれる版刻花押で、筆書の花押に代わるものです。
秀元は、中国地方の有力大名毛利輝元の従兄弟で、一時は輝元の養嗣子(後継者)となった人物です。しかし文禄4年(1595)、輝元に実子秀就が生まれたため、分家することになりました。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での敗戦により、毛利領国が削減された後は長門国(山口県)の長府などを支配し、長府毛利家を立てることになります。当初の所領高は3万6000石余りです。
余談ですが、秀元は、最初の妻である豊臣秀長の娘が亡くなった後、慶長18年に、徳川家康の養女(松平康元の娘)を妻に迎えます。また徳川家光の御咄衆(将軍の側にいて雑談の相手などを務める)にもなり、一時は毛利本家から独立した大名になろうと画策します。秀元は毛利本家を脅かす存在だったのです。
この文書が出された年代です。まず秀元の名乗りに注目します。彼の名乗りとして知られるのは、「右京大夫」「伊予守」「甲斐守」の三つです。このうち「甲斐守」は、彼の最後の名乗りになります。慶長14年6月の秀元の呼称は「伊予守」なので(毛利家文書)、彼の名乗りが「甲斐守」となるのは、その後のことでしょう。こうした点から、この文書が出されたのは、どんなに早くても慶長15年になります。
宛所の「湯壱岐」ですが、該当しそうなのが、毛利本家の当主秀就に仕えた湯浅元信という武士です。元和4年(1618)正月以降、彼は「壱岐守」と名乗り、寛永3年(1626)5月に亡くなります(萩藩閥閲録)。「湯壱岐」は、湯浅壱岐守元信かもしれません。だとしたら、この文書は、元和4年から寛永3年までの間に出されたもので、秀元と毛利本家の家臣とのやりとりを示す文書という仮説が浮上するでしょう。








