禁裏図(安政2年)
安政2年(1855)
この絵図の南のほうに描かれた紫宸殿や内侍所から、禁裏(内裏)を描いた手書きの絵図であることが分かります。紫宸殿は即位礼などの儀礼をおこなう建物です。内侍所は皇位のしるしである三種の神器(宝剣・神璽・神鏡)のうちの神鏡を安置する建物です。
本絵図の裏には、「安政二乙卯年、東、霜野写之」という記載が存在します。ここからは、干支では乙卯の年にあたる安政2年(1855)に、「東」の「霜野」という人物がこの絵図、つまり禁裏図を書写したことが分かります。
この図がどのような絵図なのかについて、今少し考えてみましょう。江戸時代の禁裏は8回建て替えられていますが、そのうち、寛政2年(1790)に完成し、嘉永7年(1854)の火災で焼失した禁裏(寛政度内裏)は、江戸時代の禁裏の中では唯一、敷地の南端が逆凸型の形状をとる建造物です。この絵図も南端が逆凸型の形状となっています。また本絵図の建物配置は、寛政度内裏における建物の配置とよく似ています。こうした点からは、一見、寛政2年から嘉永7年までの禁裏に見えるのですが、そう理解した場合、気になるのは、禁裏の東南や西南に見える実線と太線です。
安政2年に再建された禁裏(安政度内裏)は、前年の嘉永7年まで存在した禁裏とは異なって、逆凸型の形状はとらず、南側の両端の欠け込みが張り出された形をとります。これは本絵図において、禁裏の東南および西南に実線や太線が描かれた点と対応します。なお、安政度内裏は東南の張り出し部分、つまり東南の隅に建物を二棟設置しています。この点は本絵図には反映されていません。この禁裏図に見える安政度内裏の情報は、一部にとどまったということになるでしょう。
以上からすれば、この禁裏図は、寛政度内裏の情報に、安政度内裏の造営にともなう拡張部分の一部を加えた絵図と言えるでしょう。








