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御築地内図(文久年間頃)

文久年間頃

天皇の邸宅である禁裏きんり(内裏だいり)、上皇の邸宅の仙洞せんとう御所のほか、宮家・公家の邸宅や、門跡が滞在する里坊さとぼう(山上の山坊やまぼうに対する麓の坊)などが描かれた木版もくはん刷りの彩色絵図です。

16世紀末の豊臣秀吉とよとみひでよし(1539~98)の時代、現在の京都御所の前身ぜんしんである禁裏の周辺には、公家や宮家の邸宅などが設けられ、皇族・公家やその家族らの集住地が形成されました。これが江戸時代へとつながる公家町くげまちの出現です。

図のタイトルの「築地内ついじのうち」とは、図に見える公家町の大部分を占めるエリアで、入口に設けられた9つの門(今出川いまでがわ・石薬師いしやくし・清和院せいわいん・寺町てらまち・堺町さかいまち・下立売しもたちうり・蛤はまぐり・中立売なかだちうり・乾いぬい)から禁裏につながる空間を言うことが多いようです。この築地内には、築地塀ついじへい(屋根の付いた土塀)を有する邸宅が多かったと言われています。

なお、江戸時代の築地内は、現在の京都御苑のように、周囲を石積みの土塁(盛土からなる外壁)で囲ったものではありません。入口に9つの門を構えただけの空間です。万延元年(1860)の9門には番人が置かれ、築地内への出入りを取り締まっていました。このころ、京都以外の地から来た者については、行き先と名前を確かめた上で、築地内へ通すことになっていました。また地方から築地内を拝見しにやってきた者も、身元の確認が済めば、中へ入ることが可能とされていました(「桂宮日記」)。

この「御築地内図」の刊行時期は特定できませんが、最北に描かれた「薩刕屋鋪(薩州さっしゅう屋敷)」つまり薩摩藩邸が築地内の北に設けられるのは、文久2年(1862)のことですから、刊行は同年以降になります。なお、図中の建造物を見ると、禁裏の南は、寛政2年(1790)完成の禁裏(寛政度内裏かんせいどだいり)の特徴である逆凸型の形状を示しており、嘉永7年(1854)の火災で炎上する前の禁裏が描かれていることが分かります。こうした点は、古い地理情報が含まれたまま、この「御築地内図」が刊行されたことを意味します。

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