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禁裏図(慶応2年頃)

慶応2年(1866)頃

公家町を描く木版刷りの彩色絵図です。禁裏(禁裏御所)・仙洞御所や、宮家・公家の邸宅、門跡の里坊などの建造物を確認することができます。

この禁裏図を見ると、文久3年(1863)に新しく宮家を立てた朝彦親王あさひこしんのう(1824~91)の邸宅、すなわち中川宮なかがわみやの邸宅が禁裏の南方に、文久2年築造の「薩州御屋敷」つまり薩摩藩邸が禁裏の北方に描かれているので、図記載の地理情報の中に、幕末の政争が激化した文久年間(1861~64)の情報が含まれていることは確かと言えるでしょう。

また有栖川宮ありすがわみや家の邸宅が禁裏の南方に描かれていることも目をひきます。同宮家の邸宅は、もとは禁裏の東北のあたりにあったのですが、慶応2年(1866)に禁裏の東北部が拡張されたため、禁裏の南方へ移っています。こうした点からすれば、この図の地理情報には、慶応2年頃の地理情報が含まれていることも分かります。

そうなると、問題になるのは、図の左側に記された「慶應元年乙丑いっちゅう冬、再彫」の記載です。これは、慶応元年(干支では乙丑の年)の冬に刊行された禁裏図の地理情報を、後に修正した上で、再び刊行したという意味でしょう。

なお、この図に描かれた公家の邸宅を見ると、その家の家業かぎょう(家に伝わる学問・芸能)が記されていることに気づきます。例えば禁裏の北方に位置した冷泉れいぜい家の邸宅には「和歌御家」、禁裏の東北のあたりに位置した飛鳥井あすかい家の邸宅には「蹴鞠・和歌御家」と記されています。これは、冷泉家が和歌を家業とする家であること、飛鳥井家が蹴鞠や和歌を家業とする家であることを意味します。こうした記載からすれば、この禁裏図は、公家を紹介するガイドブックのような機能を持っていたと言えるかもしれません。

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