足利尊氏御内書
建武3年(延元元年/1336)9月5付

土左国幡多郡・讃
岐国山田庄・摂津
国福原庄等御伝領
事、承候畢、恐惶
謹言
建武三
九月五日 尊氏(花押)
人々御中
[読み下し]
土左(佐)国幡多郡・讃岐国山田庄・
摂津国福原庄等御伝領の事、
承り候いおわんぬ 恐惶謹言
足利尊氏(1305~58)が土佐国幡多郡(高知県幡多郡)・讃岐国山田庄(香川県綾川町内か)・摂津国福原庄(神戸市内)の相伝・領有を認めたもの。御内書とは、鎌倉・室町将軍が発給した書状のことで、しばしば公文書としても用いられました。
宛所(宛先)は「人々御中」としか記されていませんが、幡多郡以下はいずれも公家の一条家の所領であるため、当時内大臣であった一条経通宛てとわかります。公家社会の新参者である尊氏にとっては、当時の書札礼(書状をやり取りするにあたっての様々な作法・約束ごと)に則ると、摂関家の当主に直接宛てた文書を発給することはできなかったのです。
この年、九州から攻め上った尊氏は6月に入京し、8月には光明天皇を践祚させて、後醍醐天皇に対抗します。当時の尊氏は無官で(尊氏が征夷大将軍に任官するのはこの2年後)、本来は公家・寺社領に対する安堵(領有権の認定)権や裁許権ももたないのですが、尊氏の実力を認識した一条家が安堵を要請した結果出された文書です。「御伝領の事、承り候畢(おわんぬ)」(所領の相伝を承知しました)との表現に、尊氏の微妙な立場が現れています。
入京直後の尊氏の政治的実力がわかる貴重な文書です。