足利直義感状
建武5年(1338)3月20日付

備後国守護代馳向
芸州、致軍忠云々、
尤以神妙、向後弥
可抽忠節之状如件
建武五年三月廿日 (花押)
朝山次郎左衛門尉殿
[読み下し]
備後国守護代、芸州に馳せ向い軍忠を致すと云々(うんぬん)。
尤(もっと)も以て神妙。向後(こうご、きょうこう)いよいよ
忠節を抽 (ぬきん) ずべきの状くだんの如し
足利直義が備後守護朝山景連に宛てて、景連代官(守護代)の安芸国での軍忠を賞し、今後なお忠節に励むよう述べた感状。
足利直義(1306~52)は尊氏の実弟であり、兄尊氏を補佐して草創期の室町幕府の運営や南朝勢力との戦いに従事しました。のち尊氏の執事高師直と対立し、その抗争は幕府を尊氏派・直義派に二分する抗争(観応の擾乱)に発展します。正平7年(観応3/1352)正月に尊氏軍に降り、翌月鎌倉で没しました。伝統主義的な教養人として知られる人物です。
宛所の朝山景連は、出雲国朝山郷(島根県出雲市内)を拠点とする在庁官人の系譜をひく有力武士。元弘3年(1333)閏2月、隠岐島を脱出した後醍醐天皇が伯耆船上山に籠もった際には八百余騎を率いて馳参し、五月の京都還幸にも前陣をつとめました。建武2年(1335)冬に尊氏が挙兵すると朝山景連は備後守護に補任されたらしく、翌年2月には、備後大将今川顕氏ともども国内の鎮定を命じられています。景連は摂津・大和・丹波・伊予での軍事行動に従事しており、本文書では家臣である守護代が隣国安芸に出陣し戦功を挙げたらしい。本文書は景連の備後守護在職の終見史料で、こののち景連は本国出雲で活動していることが知られます。