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足利義詮御判御教書

貞治2年(1363)9月12日付

伏見大光明寺雑掌良勝申播磨国
多可庄地頭職事、就去六月廿七日註進
状沙汰了、為 仙洞御領、非闕所、重職厳重
地也、縦新給人雖掠給補任状、不可
依彼状之子細、度々其沙汰了、赤松筑前入道
雖支申、不可許容、不日沙汰付下地於
雑掌、可全彼寺用、使節尚緩怠者、殊
可有其沙汰之状如件
 貞治二年九月十二日   (花押)
 赤丸律師御房

[読み下し]
伏見大光明寺雑掌良勝申す播磨国多可庄地頭職の事。
去る六月廿七日註進状につき沙汰しおわんぬ。
仙洞御領として闕所(けっしょ)にあらず。重職厳重の地なり。
たとえ新給人補任状を掠め給わるといえども、
かの状の子細に依るべからず。度々その沙汰おわんぬ。
赤松筑前入道支え申すといえども許容すべからず。
不日、下地を雑掌に沙汰付け、かの寺用を全うすべし。
使節なお緩怠せば殊(ことさら)にその沙汰有るべき
の状、くだんの如し

伏見大光明院の所領播磨国多可庄地頭職に対する妨害を排除して現地を大光明院側に引き渡すよう、足利義詮が播磨守護赤松則祐に命じた文書。御判御教書みきょうじょみぎょうしょとは、室町将軍が自ら署判し、自身の指示や命令を直接伝える文書のことです。

足利義詮(1330~67)は尊氏の嫡男で、室町幕府二代将軍。延文3年(1358)4月に尊氏が没するとその跡を継ぎ、直義派の大名の帰参を図るなど内乱の終息、幕府政治の安定化につとめました。

多可庄(兵庫県加西市内)は光厳上皇が伝領していましたが、上皇が南朝に拉致されている間に同庄の地頭職が赤松貞範に与えられました。延文2年(1357)の上皇の帰京ともない、幕府は貞範に替え地を与えて、多可庄を上皇に返付したものの、貞範はこれを不服として同地の返還を拒んだため、義詮が守護赤松則祐に違乱排除を命じたのです。貞範は守護赤松則祐の実の兄です。

大光明院(大光明寺)は、光厳上皇の母広義門院(西園寺寧子)が夫後伏見天皇の菩提を弔うために伏見の地に建立した寺院で、帰京した光厳上皇も同寺に隠棲しました。慶長16年(1611)に徳川家康によって相国寺(京都市上京区)の塔頭として同寺境内に移築され、現在に至ります。

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