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足利義満御判御教書

永徳3年(1383)6月21日付

   (花押)
料所摂津国多田庄波豆
村〈加納 高梨跡〉・鎌倉谷村内田畠〈目録在之〉事、
早六瀬九郎左衛門尉頼連法師
〈法名行心〉可令領知之状如件
  永徳三年六月廿一日

[読み下し]
料所摂津国多田庄内波豆〈加納、高梨跡〉・鎌倉谷村内
田畠 〈目録これ在り〉の事。早く六瀬九郎左衛門尉
頼連法師 〈法名行心〉領知せしむべきの状、くだんの如し

室町幕府三代将軍である足利義満(1358~1408)が、六瀬頼連に対して幕府料所摂津国多田庄内の波豆村(兵庫県宝塚市)・鎌倉谷村(同川辺郡猪名川町)の領知(支配権)を認めた文書。

多田庄は兵庫県の川西市から猪名川町・宝塚市・三田市一帯に広がる広大な庄園です。清和源氏の祖となる源満仲(清和天皇の曾孫)がこの地に館を設けて本拠としたことから、一族や郎党が庄内に盤踞します。満仲は同庄内に創建した多田院(現在の多田神社。川西市)に葬られたことから、多田院は源氏の祖廟として尊崇を受け、とくに尊氏以下の足利歴代将軍は多田院に分骨埋葬されることが慣例となりました。

多田庄内の武士は多田院御家人と称するようになりますが、六瀬氏も多田庄内の六瀬(猪名川町)を名字の地とする多田院御家人で、嘉禎年間(1235~38)には活動が確認できます。六瀬頼連自身は、貞和5年(1359)から康安2年(1362)にかけて幾多の合戦に参加したことを述べた数通の軍忠状・着到状を残しています。 

本文書の発給者である足利義満は、自身の姓名や官職官位は記さず、料紙の袖(冒頭部分)に花押を据えるのみです。これを袖判そではんといい、家臣などに対して用いる薄礼の書式になります。

なお、ここまでに掲示した尊氏・直義・義詮・義満の花押かおうは、いずれも「義」字をもとにデザインした武家様ぶけよう花押です。この伝統は足利将軍家および分家である鎌倉公方足利家で代々継承されていきます。

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