足利義満自筆御内書
〔応永6年(1399)カ〕卯月25日付

門跡領以下目六一見候
畢、附弟事、追可定
候、心安可思給候、猶々不可
有等閑儀候也、敬白
卯月廿五日 (花押)
東北院前大僧正御房
[読み下し]
門跡領以下の目六(録)、一見候いおわんぬ。
附弟の事、追って定むべく候。心安く思し給うべく候。
猶々(なおなお)等閑の儀有るべからず候なり 敬白
足利義満が南都興福寺の東北院主に宛てた自筆の書状。
宛所の「前大僧正」は興福寺別当を二度つとめ、応永6年(1399)5月2日に死去した円兼と推測され、この御内書はおそらく円兼の死去直前に送られたものでしょう。
義満は「門跡領の目六(録)を一見した」として、東北院領の支配権を安堵するとともに、附弟(東北院を継承する弟子)も追って定める、と述べています。義満はこの頃、京都の北西郊外に造営した北山山荘(現在の鹿苑寺)に移り住み、朝廷・幕府双方に及ぶその権力は絶頂を迎えようとしていました。藤原氏の氏寺として権勢を誇った興福寺に対しても影響力を強めていたのです。
本文書に据えられた義満の花押は、当時の公家社会で流行した形状に則った公家様花押です。義満以降、足利将軍は大納言ないし内大臣に任官すると、武家様花押から公家様花押にあらためるようになりました。義満は永徳元年(1381)7月に内大臣に任官しており(ときに24才)、同年末から公家様花押の使用が確認できます。
足利義満の自筆文書は行の頭が左下がりになる特徴があり、本文書でもその特徴がはっきりと現れています。数少ない義満の自筆文書として貴重な文書です。