稲村御所足利満貞書下
応永6年(1399)8月28日付

陸奥国石川庄内沢井郷・同国依上
保内鮎河上中両郷・同国高野北郷
内大多和・深渡戸・沼澤参ヶ村以下
事、為料所、所被預置也、於有限御年
貢者、可致其沙汰之状如件
応永六年八月廿八日 (花押)
結城参河七郎殿
[読み下し]
陸奥国石川庄内沢井郷・同国依上保内鮎河上中両郷・
同国高野北郷内大多和・深渡戸・沼澤参(三) ケ村以下の事。
料所として預け置かるるところなり。有限の御年貢においては
その沙汰を致すべきの状、くだんの如し
稲村御所足利満貞(?~1439)が、陸奥国白河を拠点とする結城満朝に陸奥国の石川庄内沢井郷(福島県石川郡石川町)や依上保内鮎河上・中両郷(茨城県久慈郡大子町)ほか数カ所の所領を料所として預け置いたもの。書式は将軍が発給する御判御教書と全く同じですが、御判御教書という文書名は将軍・室町殿の発給文書に限定して用いるため、書下としました。
足利満貞(1390~1439)は第二代鎌倉公方足利氏満(尊氏の孫)の子。応永五年氏満の死去を受けて鎌倉公方に就任した長兄満兼の命により、陸奥・出羽両国(東北地方)の支配強化のため、同六年に満貞が同岩瀬郡稲村(福島県須賀川市)に、満直が陸奥国安積郡篠川(福島県郡山市)に下向し、それぞれ稲村御所、篠川御所と呼称されました。
宛所の結城満朝は、下総結城氏の庶流で陸奥国白河を拠点とする有力国人白河結城氏の当主。のちには足利将軍直属の京都御扶持衆となり、鎌倉公方を牽制・対立する存在となりました。
本文書は足利満貞の発給文書でも極めて早い時期のもので、陸奥南部の有力豪族に所領を与えて懐柔しようとする意図が見て取れます。
花押の形状は足利将軍と同じく「義」字をデザインしたものですが、鎌倉公方足利氏の系統では底辺が一直線になるなど直線を多用するのが特徴です。