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北野宮寺政所補任状 紙背(本紙裏面)

享保7年(1722)11月朔日付

                       多計丸





乗弁 後能正ニ改 享保七
元禄弐能松ノ二男
         延享四年改名 其後能正ト申也 乗弁

本紙表面

現在の北野天満宮は、明治の神仏分離前は「北野宮寺」と称し、比叡山延暦寺の末寺でした。それゆえ、江戸時代の北野宮寺の建造物の中には、法花堂ほっけどうを始めとする堂舎が存在し、境内の中の僧侶たちは、天満大自在天神てんまだいじざいてんじん(菅原道真の神としての号)を始めとする神々に奉仕する存在でした。「天神さん」として知られる北野天満宮の所在地の風景は、江戸時代よりも前と明治以降では異なっていたのです。

この文書は、北野宮寺の社僧乗弁じょうべんを同寺の沙汰承仕職さたしょうじしきに任じた際に出されたものです。沙汰承仕職は、神供の調達や検断などをになう存在であり、下級の社家である宮仕沙汰承仕家みやじさたしょうじけの者が任命されました。紙背(文書の裏)の記載からは、乗弁の幼名が「多計丸」であること、彼が後に「能正」と改名することなどが分かります。

神仏分離により、北野宮寺に奉仕する社僧たちは還俗を命じられました。宮仕沙汰承仕家の人々も還俗して十川そがわ氏を名乗り、社務から離れました。

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