王政復古に関する高札
慶応4年(1868/明治元年)正月24日

今般
王政復古之折柄、徳川
軍勢於伏見表ニ叛逆
依之征討将軍被差
向候ニ付ては、徳川領地同
家臣領地被召上候ニ付
御政事向等従
朝廷可被仰出候得共、夫
迄之処は、年貢其外旧
典ニ依るへし、尤難差
置事件は速ニ廃止し、
困窮者は下ニおゐて精々
救助人民安堵せしめ
慎て
朝廷之御沙汰可相
待候事
官軍先鋒
辰ノ正月廿四日 長州
慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられ、徳川慶喜に対して辞官納地(官位および領地の朝廷への返上)が求められました。この措置に反発した旧幕府軍と新政府軍とのあいだで、翌慶応4年1月3日、京都近郊の鳥羽および伏見で戦闘が生じます(鳥羽・伏見の戦い)。
この高札は、戦闘が生じた後の1月24日、官軍(新政府軍)の先鋒として長州藩が発したものです。徳川の軍勢が「叛逆」を起こしたため、「征討将軍」(征討大将軍の仁和寺宮嘉彰親王)を派遣し、徳川家とその家臣の領地を接収する旨が記されています。その対象となる旧徳川家領の人々に向けて、今後は朝廷から命令を下すが、年貢などはしばらく旧来のままとすることなどが伝えられました。
政権の速やかな安定のためにも、人々への王政復古の周知と、人心を安心させることが、成立直後の新政府にとって重要な課題でした。この高札は、政権の安定に向けた新政府軍の、初期の試みのひとつと位置付けることができます。