正岡子規書簡
明治29年(1896)7月8日付 加藤雪腸宛て

復
度々御慰問を辱
うし難有(ありがたく)候、小生
病氣ハ最早摂養
とか何とか申す處
を通りぬけ居候
故、此後誰より病
気之事抔(など)御聞被成
候とも、御見舞抔ニ及ひ
不申候、一日といへども病
苦を忘れ候事あらば
無上の快楽なれども
それさへ期しがたく候、
由来行脚好の男
なりしも、最早汽車
にのることさへ無覚束(おぼつかなき)
位ニ相成候、不自由さ
御憫察被下度候、
小生々来無やみに
大きな計畫ばかり
致居候處、今日に至り
計畫の十分の一もまだ
出来上らぬに、はや
浮世のはしに近つ
き申候、こればかりは
日々念頭に残りて
死ぬるも死ねきれぬ
原因と相成居り、併し
て此五尺の身軆
を百病の器となし
たる上ハ恨むべき方も
なし、只病苦少
しにても間ある時、吾
計畫の萬分の一なり
ともはかどらせんと■(抹消)
心がけ居候ばかりに候、
今にも小生此世を
去りたらば無念
の一念、大魔王と
化し世間幾多
多病の人を守護
して事業を成
さしむべし、あハれ
此誓ひ変るか変
らぬか八百萬の
神々も昭覧あれ
としかいふ 呵々
明治二十九年
七月八日
常規
加藤君
拙句附記博粲
夏川や中流にして
かへり見る
戸敲くは水鶏か
八百屋か豆腐屋か
病起窓によれば
若葉に風が吹く
怠りや心の道に
草茂る
短歌、俳句の革新を推し進めた正岡子規の書簡。明治29年(1896)、この年から病床に伏した子規が、俳句の弟子に当たる加藤孫平(雅号 雲腸)に見舞いへの礼を兼ねて心境を綴っています。
脊椎カリエスで身動きがままならず、痛みに悩まされる日々、「一日といへども病苦を忘れ候事あらば無上の快楽なれども」叶わないとあります。子規は当時26才の若さでしたが、死を覚悟していたものとみえます。「無やみに大きな計画ばかり」抱いていたが、「十分の一」も達せずに、「はや浮世のはしに近づき申候」と記されています。ですが、無念を語りながらもそこにはユーモラスなおおらかさがほの見えています。それは天性の向日性と徹底的な自己客観視に因るものでしょう。死後には「無念の一念大魔王」となって、多くの病人を守護する事業を起こしたいと、この書簡は結ばれています。
末尾に四つの俳句が記されています。その一句に「病起窓によれば若葉に風が吹く」。