足利義持自筆御内書
〔年未詳〕11月26日付
山城国乙訓庄・備後国
津田郷・因幡国吉岡庄
事、如元御管領不可
有相違候也、恐々謹言
十一月廿六日 義持
(花押)
青蓮院殿
[読み下し]
山城国乙訓庄・備後国津田郷・
因幡国吉岡庄の事、元の如く
御管領相違有るべからず
候なり。恐々謹言
室町幕府四代将軍足利義持(1386~1428)が青蓮院門跡による山城国乙訓庄(所在地不詳)・備後国津田郷(広島県世羅町内)・因幡国吉岡庄(鳥取市内)の支配を認めたもの。御内書とは、室町幕府の将軍が発給した書状形式の公文書です。
足利義持は応永元年(1394)12月に征夷大将軍宣下を受けますが、室町殿(足利家の家督)として幕政の実権を掌握するのは同15年5月父義満の死去以降のことです。
義持の花押は右側中程の突出部が年々伸びるという特徴があり、その長さからすると本文書は義持執政の初期、応永15~17年頃のものと推測されます。
宛所の青蓮院は、皇族や摂関家の子弟が入寺し、天台座主(比叡山延暦寺ならびに天台宗のトップ)を出す寺格の高い院家で、梶井門跡(三千院)・妙法院門跡とともに天台三門跡と呼称されます。
当時の青蓮院門跡は足利義満の子である義円(1394~1441)です。つまり、この御内書は足利家の当主である兄義持から弟義円に対して送られたもので、青蓮院門跡という寺格の高さもさることながら、兄弟という間柄ゆえに義持みずから筆を執ったものではないでしょうか。









