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足利義尚御内書

〔年月日未詳〕

⑤よろしく     ④しうちやくつかま
  御披露に       つり候へく候、
                此よし
    ➀大宮し職の事、
          両条に一
⑥あつかり             
  候へく候、 ➁叡慮にまかせ
 かしく         まいらせ候ハぬ
           との仰、尤に存候

       ➂されともうちをかれ、
         綸旨の事
           勅許候ハヽ

(切封ウワ書)「三條大納言殿   義尚」

九代将軍足利義尚よしひさ(1465~89)が権大納言の正親町三条公治おおぎまちさんじょうきみはるに宛てた書状。「大宮し職」については天皇のお考え次第とのことだが、ひとまず思い留まられて、「綸旨の事」を勅許いただければ祝着であると述べ、天皇への披露・取りなしを依頼しています。

「大宮し職」とは尾張熱田社(名古屋市)の大宮司職の可能性があります。文明16年(1484)8月、義尚は朝廷に執奏し、千秋せんしゅう政範に替えて星野政茂を熱田社大宮司としますが、一年後に義尚は大宮司をもとの政範にすることを執奏して、後土御門天皇から拒否されています。本書状はこのいずれかの任免に関わる可能性が高く、義尚の推す人物を大宮司とする綸旨りんじ(天皇の命令を蔵人らが承って出す文書)の発給を要請しているのでしょう。

天皇に伝わることを意識して、女房奉書(天皇の命令を近侍する女房が承って出す書状形式の文書)にならった漢字仮名交じり・散らし書きの形式となっており、番号をつけた①②③・・・の順に書かれています。

足利義尚は義政と御台所日野富子の子で、文明5年12月に義政から征夷大将軍職を譲られますが、そののちも義政の執政は続き、嫌がった義尚は長享元年(1487)9月に諸大名や奉公衆(将軍直轄軍)を率いて近江へ出陣、同3年3月にまがり(栗東市)の陣中で没します。

なお、平安末期の熱田大宮司千秋季範すえのりの娘が源頼朝の母、季範の子範忠の娘が足利義泰の妻室となるなど、熱田大宮司家と源氏・足利氏との繋がりは深く、星野氏はその一族です。千秋政範・星野政茂とも室町幕臣でもありました。

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