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足利義輝御判御教書

天文19年(1550)8月14日付

   (足利義輝花押)
知行分近江国野洲郡名田畠・同
国江辺篠原・同所々散在并山林
浦等事、度々証文分明之上者、
任当知行之旨、永原越前守重興
弥領掌不可有相違之状如件
 天文十九年八月十四日

[読み下し]
知行分近江国野洲郡名田畠・同国江辺篠原・同所々散在
ならびに山林浦等事、度々証文分明の上は、当知行の旨に任せ、
永原越前守重興いよいよ領掌相違有るべからずの状、くだんの如し

十三代将軍足利義輝(1536~65)が近江の国人永原重興に対して、野洲郡内の名田畠や江辺・篠原、山林・浦など「当知行」所領(現在実際に領有している所領)の支配権を安堵したもの。

永原氏は野洲郡永原(滋賀県野洲市)を名字の地とする国人で、現在も同地に居館跡が残っています。近江守護六角氏の家臣ですが、永正15年(1518)12月には永原越前守(重興の先代か?)が足利義稙(十代将軍)からほぼ同内容の御判御教書を獲得しているほか、足利義澄(十一代将軍)・同義稙から軍勢催促を受けたり、足利義晴(義輝の父)からは参洛の労を賞して馬を拝領するなど、戦国期になると将軍家との結びつきを強めています。

この文書が出される前年の天文18(1549)年6月、京都は三好長慶が制圧するところとなり、義輝(当時は義藤と名乗る)は前将軍である父義晴とともに近江坂本へ退避します(義晴は翌年5月に近江で死去)。その後、義輝は京都東山の慈照寺(銀閣寺)の背後に築いた中尾城(京都市左京区)に進んで三好勢と対峙しますが、本文書はこの中尾在城時に出されたものです。

三好長慶と対立するなかで、近江の有力国人永原氏との関係を強化しようとの意図もあったでしょう。なお義輝は永禄8年(1565)5月に三好義継・松永久通・三好三人衆らによって二条御所を襲撃され、悲劇的な最期を遂げます。

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