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年季奉公人請状之事

天保13年(1842)10月付

釈文

信濃国善光寺門前の権堂村(現長野市)にあった茶屋島田屋の旧蔵文書に残る奉公人証文です。

「年季奉公人請状之事」の書出で始まるこの証文は、江戸本所(現東京都墨田区)在住の金之助に雇用されていた、さくという女性が、旅籠屋(旅宿)へ飯盛女として3年の間奉公することになった際、彼女や金之助らが島田屋の経営者伊伝治(伊伝次)へ出したものです。飯盛女とは、旅籠屋で給仕や雑用等に従事し、遊女奉公をも勤めた女性のことです。給金は3年間で金子15両でした。

文書の冒頭の部分からは、金之助がさくを連れて江戸を発ち、善光寺や信濃国の戸隠山(現在の戸隠神社・現長野市)へ参詣しようとしたおり、金之助が道中で病にかかって長期にわたる療養をしいられたことや、これにより多くの出費があり、島田屋に願い出て、さくが飯盛女として奉公に出されたこと、彼女の給金15両(=金之助にとり必要な金子)は、島田屋から金之助が受け取ったことが分かります。

このほか、①さくが奉公先の旅籠屋から逃亡した場合、金之助らが彼女を探し旅籠屋へ戻すことや、②さくが行方知れずとなった場合、金之助らが伊伝治の望みに応じて、代わりの者を出すか、彼女の給金分を支払うこと、③さくの奉公ぶりに問題がある場合や彼女が気に入らない場合は、別の奉公先へ移し、さくから給金分を取り立ててもよいこと、④さくを妻に望む者がいた場合、彼女の了解を前提に、その者に嫁がせてもよいこと等が記されています。

こうした点から、飯盛女が過酷な労働環境のもとで奉公していたことが想像できるかと思います。

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